大岡昇平、『坊っちゃん』は読み飽きない小説……

松山を舞台とした夏目漱石の小説『坊っちゃん』。作家の大岡昇平はこの小説を数十回読んだという。

私は若いころからスタンダールをやっていて、『パルムの僧院』を二十遍以上読んでいる。ところで漱石の『坊っちゃん』の方は多分その倍ぐらい読み返しているのである。


読むたびに新たなおもしろさの発見があって、飽きないと大岡は述べている。

もし『猫』と『坊っちゃん』を漱石の代表作とする意見があれば、私はそれに賛成する。しかし『猫』は少し人を面白がらせようとして無理をしている。学をひけらかしてきざになっているところがあるが、『坊っちゃん』にはそれがない。(中略)こういう多彩で流動的な文章を、その後漱石は書かなかった。また後にも先にも、日本人のだれも書かなかった。読み返すごとに、なにかこれまで気づかなかった面白さを見つけて、私は笑い直す。この文章の波間にただようのは、なんど繰返してもあきない快楽である。傑作なのである。


漱石の諸作の中でも、おもしろさという点ではこれにまさる作品はない。松山の悪口がさかんに出るが、松山の人間にとってはそこもまた読みどころである。

▼ 松山坊っちゃん会建立の「漱石 坊っちゃん之碑」(道後温泉本館東側)
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【参考文献】
大岡昇平『小説家夏目漱石』筑摩書房 1988年5月

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夏目漱石、高浜沖で釣りをする

夏目漱石は松山中学の教師時代、教頭の横地石太郎と同僚教師の西川忠太郎に誘われて、高浜冲まで共に釣りに出たことがある。このとき漱石が釣ったのは当地名でギゾという魚(ベラ・キュウセン)、この魚を釣り上げて素手でつかんだ漱石は「これはいかん」と言って、両手を洗っていたと横地石太郎は回想している。

どうも夏目君はあまり好まぬやうでしたが、連れて行かうといふことになって軽便鉄道で高浜にゆき、浜から船に乗って、四十島と興居島の間が大変よく釣れる。とにかくかういふ風にして釣るのだといって、西川がいろいろ世話して釣方を教へました。暫らくしてゐると、ぶるぶるっとかゝって来た。引きあげてみると、何やら綺麗な魚がかゝってました。ギゾ、べらといふ魚です。喜んで先生引きあげるなり手にもった。なかなか釣針をはなすことができない。西川が手伝ってやってたうとう離した。そうしたところぬるぬるしてるものだから気もちわるいもので、これは臭くてどうもえらいものを釣った。これはいかぬといって両手を洗ってゐました。(「漱石を偲ぶ座談会」での横地石太郎談)


『坊っちゃん』の第五回で描かれている次のような釣りの場面は、この高浜冲での体験をもとにしたものであろう。

君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。(中略)
停車場で赤シャツと野だを待ち合せて浜へ行った。船頭は一人で、舟は細長い東京辺では見た事もない恰好である。(中略)
船頭はゆっくりゆっくり漕いでゐるが熟練は恐しいもので、見返へると、浜が小さく見える位もう出てゐる。高柏寺の五重の塔が森の上へ抜け出して針の様に尖がってる。向側を見ると青嶋が浮いてゐる。是は人の住まない島ださうだ。よく見ると石と松ばかりだ。成程石と松ばかりぢゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望していゝ景色だと云ってる。野だは絶景でへすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いゝ心持には相違ない。ひろびととした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見給へ、幹が真直で、上が傘の様に開いてターナーの画にありさうだね」と赤シャツが野だに云ふと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙って居た。舟は島を右に見てぐるりと廻った。波は全くない。是で海だとは受け取りにくい程平だ。赤シャツの御陰で甚だ愉快だ。出来る事なら、あの島へ上がって見たいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いて見た。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸ぢゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、是からあの島をターナー島と名づけ様ぢゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々は是からさう云はうと賛成した。此吾々のうちにおれも這入ってるなら迷惑だ。おれには青嶋で沢山だ。(中略)
しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくっちゃ、かうぴくつく訳がない。しめた、釣れたとぐいぐい手繰り寄せた。(中略)船縁から覗いて見たら、金魚の様な縞のある魚が糸にくっついて、右左に漾いながら、手に応じて浮き上がってくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちゃりと跳ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。漸くつらまへて、針をとらうとするが中々取れない。捕まへた手はぬるぬるする。大に気味がわるい。面倒だから糸を振って胴の間へ擲きつけたら、すぐ死んで仕舞った。赤シャツと野だは驚ろいて見てゐる。おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがって見た。まだ腥臭い。もう懲り懲りだ、何が釣れたって魚は握りたくない。魚も握られたくなからう。さうさう糸を捲いて仕舞った。
一番槍は御手柄だがゴルキぢゃ、と野だが又生意気を云ふと、ゴルキと云ふと露西亜の文学者見た様な名だねと赤シャツが洒落た。さうですね、丸で露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。(『坊っちゃん』五)


教頭の赤シャツに誘われての釣り。停車場→浜からの乗船は横地らとの釣りのときと同じ。石と松ばかりの「青嶋」というのは高浜冲の四十島に当たる。魚の名前はギゾからゴルキ。フランスの歴史家ギゾーからロシアの作家ゴーリキーを連想したためともいわれる。ゴルキをつかんだ手をざぶざぶと洗ったというのは、ギゾを釣り上げたときの漱石の姿と重なる。

▼ 高浜冲
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前方の小島が「青嶋」とされた四十島、後方は興居島。四十島の周囲は潮の流れがはやいが、興居島の湾のほうは波もなく、「これで海だとは受け取りにくいほど平らだ」という漱石の表現どおりである。

【参考文献】
曾我正堂『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』三好文成堂 1937年4月
『漱石全集』第2巻 岩波書店 1994年1月

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夏目漱石、松山の悪口を言う

子規の縁戚の服部嘉香が初めて夏目漱石に会ったとき、漱石は盛んに松山の悪口を言ったという。

私が初めてお会いしたのが明治四十年の春ぐらいでありましたでしょう。行きましてか何かの話から松山だということがわかりますと、君も松山ですかと珍しげにいって盛んに松山の悪口が出る。その後にまた子規との関係も話が出まして、へー子規の親戚ですかといってまた松山人の悪口が出る。猜疑心が強いとか、排他的だとか、いろいろ欠点をあげるんですね。
しかし悪口はいいながら、松山と松山人は好きなようでした。松山人である安倍能成、高浜虚子、真鍋嘉一郎、松根東洋城などが親しくしていましたことはご承知の通りでありますが、私は直()き門下ではありませんが、明治四十年、四十一年、二年、早稲田大学卒業の前後よく訪ねまして、「三四郎」、「それから」、「門」の三部作は、署名したのをもらって来ましたし、修善寺で二度目の大喀血のあと長い療養期間をおいて東京に帰り、今の放送協会の真向えの長与胃腸病院に入院中を訪ねますと、喜んでくれましたのですが、頼みもしませんのに座辺の短冊に五、六枚俳句を書いてくれたりしました。(服部嘉香「子規と古白と拓川」『加藤拓川』所収)


ここに松山人として挙がっている真鍋嘉一郎、松根東洋城は松山の生まれではないが、松山中学の卒業生。名前は出ていないが村上霽月、森円月、久保より江などの松山人とも漱石は親交があった。

盛んに松山の悪口を言った漱石ではあったが、松山の文化には終生親しみを感じており、松山をまた訪れたいという思いも持っていた。この点については、過去のブログ記事で言及しているので参照していただきたい。

2011年3月23日記事→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-511.html
2010年10月23日記事→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-387.html
2012年9月3日記事→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1174.html

【参考文献】
畠中淳(編著)『加藤拓川』松山子規会 1982年2月

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夏目漱石の書簡碑(愛松亭跡)

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夏目漱石(1867-1916)の書簡碑。松山着任を報せる神田乃武宛の書簡(明治28年4月16日付)が刻まれている。

拝啓 出立の節は色々御厚意を蒙り奉万謝候 私事去る七日十一時発九日午後二時頃当地着仕候間 乍憚御安意被下度候 赴任後序を以て石川一男氏に面会致し早速貴意申述置候間 左様御承知被下度候 同君事ハ今回石川県に新設の中学校へ更任相成 明日当地出発の筈に御座候 小生就任来既に四名の教師は更迭と相成 石川君も其一人に御座候 何事も知らずに参りたる小生には余程奇体に思ハれ候 教授後未だ一週間に過ぎず候へども地方の中学の有様抔は東京に在って考ふる如き淡泊のものには無之 小生如きハーミット的の人間は大に困却致す事も可有之と存候 くだらぬ事に時を費やし思ふ様に強勉も出来ず 且又過日御話の洋行費貯蓄の実行も出来ぬ様になりはせぬかと竊かに心配致居候 先ハ右御報まで 余ハ後便に譲り申候 時下花紅柳緑の候 謹んで師の健康を祈り申候 頓首
 四月十六日          金之助
神田先生 座右

東京麹町区飯田丁
神田乃武様 親展

愛媛県松山市一番町
愛松亭にて
 夏目金之助
四月十六日


漱石はこの書簡を下宿先の愛松亭で書いた。碑はその愛松亭跡(松山市一番町・萬翠荘敷地内)に建てられている。

愛松亭については→ブログ2011年6月7日記事同8日記事同9日記事

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夏目漱石「松山鮓」を食す

夏目漱石が「松山鮓」を食べたのは明治25年(1892)8月中旬、松山の子規の家を訪問したときのことであった。このときのことは次のように伝えられている。

夏目漱石は学生時代にも子規居士を訪ねて松山に来てゐる。それは明治廿四年(注-明治25年が正しい)であったと思ふ。だから廿八年の四月松山中学の教師として赴任したのは二度目の来松である。初めに来たときに子規のお母さんが松山ずしをつけて食べさせたところ漱石は非常に喜んだ。そのときの家は興禅寺の向ひの小さい借宅であったのです。そのころ子規のお母さんはお律さんと二人住まってゐてお針を教へてゐられたらしい。そのとき漱石の学生らしい真面目な態度に対して子規は「夏目はなかなか勉強家で成績もよいぞな」とお母さんに話したとのことです。(座談会「子規を語る」発言者・景浦直孝)


私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大学の帽子を被っている姿である。時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家(うち)の一室である。それは、或る年の春休みか夏休みかに子規居士が帰省していた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって松山鮓とよばれているところの五目鮓が拵えられてその大学生と居士と私との三人はそれを食いつつあった。他の二人の目から見たらその頃まだ中学生であった私はほんの子供であったであろう。また十七、八の私の目から見た二人の大学生は遥かに大人びた文学者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に来たのであったろうか。それは後しばしば氏に会しながら終に尋ねてみる機会がなかった。やはり休みを利用してこの地方へ来たついでに帰省中の居士を訪ねて来たものであったろうか。その席上ではどんな話があったか、全く私の記憶には残っておらぬ。ただ何事も放胆的であるように見えた子規居士と反対に、極めてつつましやかに紳士的な態度をとっていた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に残っている。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静坐して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸をとるのであった。それから両君はどういうようにして、どういう風に別れたか、それも全く記憶にない。たまたまその時私は一本の傘を居士の家に忘れて帰って来たことと、その次ぎ居士を訪問してみると赤や緑や黄や青やの詩箋に二十句ばかりの俳句が記されてあった。それを居士が私に見せて、「これがこの間来た夏目の俳句じゃ。」と言ったことを覚えて居る。どんな句があったか記憶しないが何でも一番最初に書いてあった句が鶯の句であったことだけは記憶して居る。(高浜虚子『漱石氏と私』)


漱石が子規の家で「松山鮓」を食べたことは『坂の上の雲』でもふれられている。

たがいに大学生のころの明治二十五年、漱石は松山の子規宅へきて滞在したこともある。たまたま中学生であった高浜虚子がその現場をみた。
「大学の制服をつけた紳士的の態度の人」
というのが、虚子の印象である。漱石はそのズボンのひざを折ってきちんとすわっている。
子規の母親のお八重が、松山鮓を運んできて漱石にすすめた。子規は、
「この夏目はなかなか勉強家で成績もよいぞな」
と、母親に話した。漱石はその松山鮓を大いによろこんだ。
「詩箋に句を書いたのが席上の散らかっていたように思う」
と、虚子は当時の記憶をかいているが、その句稿は子規の筆(て)になるものであったかもしれない。漱石はこれ以前にもときどき俳句をつくることがあったが、まだ腰を入れてはじめていたわけではなかった。(司馬遼太郎『坂の上の雲』「須磨の灯」)


漱石が訪れたときの子規の家は湊町四丁目十六番戸(大原家屋敷十番地内)、中ノ川興禅寺跡前といわれている所で、建坪約18坪、四畳と六畳の二間だけからなる極めて小さな住まいであった。現在そこには「正岡子規母堂令妹住居址」碑がたっている。

▼ 「正岡子規母堂令妹住居址」碑(松山市湊町四丁目)
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【典拠文献・参考文献】
『子規全集』別巻3(回想の子規 附補遺)講談社 1978年3月
司馬遼太郎『坂の上の雲(二)』(新装版)文春文庫 1999年1月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

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