「笹啼が初音になりし頃のこと」

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松山にてホトトギス六百号記念会 極堂も席に在り
笹啼が初音になりし頃のこと 虚子


昭和21年(1946)11月、「ホトトギス」600号記念会が松山市末広町の正宗寺でおこなわれた。席上、同寺境内に虚子の句碑を建立することが決まり、後日送られて来たのが「笹啼が」の句である。「極堂も席に在り」-この記念会には「ホトトギス」の創刊者柳原極堂も招かれていた。虚子はこの席で「極堂の句碑もたのむぞな」と言って、参会者を感動させたという。「笹啼が」の句は「ホトトギス」の創刊当時を鶯の鳴きはじめに喩えたもの。句碑は正宗寺の子規堂前。

【参考文献】
松山市教育委員会編『俳句の里 松山』松山市役所 1994年4月

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「虚子」という号

高浜清は明治24年(1891)9月7日付、同22日付の子規宛ての手紙で、俳号を付けてもらいたいと子規に懇願している。

小生是迄南海漁史など号し居り候処、思へバ無粋極まる話しにして何かなと苦心仕り候へども格別の名号も発見せず、甚だ困り居り候処。賢兄若し何か小生に適当の名号あれバ御教示被下度是亦願入候也。
但し淋しき雅客然たるを好み候。(24年9月7日付)


兼て申上候小生俳名(すこしおっこうなれど)の儀何卒御ひまに御命名被下度重て願上候也。(同22日付)


この申し出を受けた子規だが、なかなかよい号が思い浮かばず、高浜清に自分でも考えてみるようにという。

御雅号之事度々被仰候へども小生もこれといふ思ひつき無之候得共何か大兄の御住所に付てつけらるゝか、又ハ大兄ノ尤好まるゝもの又ハ事にちなんでつけられてハ如何。猶心あたりも有之候ハヾ可申上候。(9月26日付・高浜清宛て子規書簡)


高浜清は「放子」という号を考え、子規に報告。子規はそれもよしとした上で、思いついた号があるという。清(きよし)の名にちなんだ「虚子」がそれであった。

放子の御雅名面白し面白し。実ハ小生先日一寸考へつきて
 虚子
といふのにてハ如何ぞやと御尋可申存居候処也。これハ君の名「清」の字にちなミたるものにて「虚子 きよし」といふ滑稽に御坐候。又意味より申し候とも清と虚とハ殆どシノニムとも云ふべきものかと存候。(10月20日付・同上)


高浜清はこの「虚子」を終生の俳号とする。

天の川のもとに天智天皇と虚子と 大正6年
初空や大悪人虚子の頭上に 同7年
虚子一人銀河と共に西へ行く 昭和24年
悴(かじか)みて高(こう)虚子先生八十一 同28年


その俳号を詠み込んだ虚子の句である。

【参考文献】
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
『子規全集』別巻1(子規あての書簡)講談社 1977年3月
大岡信『子規・虚子』花神社 1989年9月
高浜虚子『虚子五句集(上)』岩波文庫 1996年9月
高浜虚子『虚子五句集(下)』岩波文庫 1996年10月

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高浜清(虚子)、城北練兵場での子規との出会い

今の愛媛大学(城北キャンパス)、松山赤十字病院がある辺りは敗戦まで「城北練兵場」と呼ばれる広大な野原であった。明治23年(1890)の夏、当時中学生だった高浜清(虚子)は、この練兵場でバッティングの練習中、東京帰りの学生の一団に遭遇、その中心人物で心をひきつけるような声の人が正岡子規であることをのちに知る。

松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処(そこ)へ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣(や)っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣って来た。余らも裾を短くし腰に手拭をはさんで一ぱし書生さんの積りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルであることがまず人目を欹(そばだ)たしめるのであった。
「おいちょっとお借しの。」とそのうちで殊に脹脛(ふくらはぎ)の露出したのが我らにバットとボールの借用を申込んだ。我らは本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速それを手渡しすると我らからそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。その人の風采は他の諸君と違って着物などあまりツンツルテンでなく、兵児帯(へこおび)を緩く巻帯にし、この暑い夏であるにかかわらずなお手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板(まないた)のような下駄を穿き、他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此の一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終には単衣(ひとえ)の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。そのうち一度ボールはその人の手許を外れて丁度余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬。」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく人の心を牽きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。
このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。(高浜虚子『子規居士と余』)


その翌年の24年5月23日、高浜清は友人河東秉五郎(碧梧桐)の紹介で、子規にはじめて手紙を書いた。この手紙で清は城北練兵場での出会いにふれ、文学に志があることを明かして、子規の指導を求めている。

小生大兄ノ高名を承る事久しく河東兄ノ家ニ游ブ毎に常ニ大兄の手習ニ接シ恋々の情止む能ハず。昨年夏城北練兵場ニ於テ始メテ君ニ相会フ事ヲ得ルト雖ドモ小生ノ小膽なる進で大兄ニ向テ語ヲ発スルノ機会を得ざりしハ家に帰りて已に遺憾に堪へず、今ニ於テ赧顔の至りなり。蓋シ余ノ兄ニ向テ斯く恋情忍ぶ能ハざる所以のものハ全く君と嗜好を等ふするによるものにして君が一言一句ハ以て余の肝膽に徹す可く以テ余が勇気ヲ奮フ可シ。嗚呼大兄若し鈍児を以て小生を退けず可憐児を以て憐情を垂れ区々タル小膽の希望を容れバ小生の幸福夫レ幾何ぞ。伏シテ請フ、正岡雅兄爾後時に訖正を垂れ教導訓誡の労を惜マルヽ無クンバ君ハ一ノ救世主ナリ。否救人主トコソ称す可けれ。情ノ禁ずる能ハざる所溢れて漫りに無礼の言を為す、若し高筆をわずらハす可くんバ幸甚。恐惶謹言
明治二十四年五月廿三日       城南の一漁史 高浜清
洛陽ノ鴻学
正岡雅兄                                     (句読点は引用者の付加)


この手紙を受け取った子規は同月28日、「真成之文学者また多少の必要なきにあらず、僕性来疎慵世事に堪へず妄りに戯文家を以て我任となす。(中略)賢兄僕を千里の外に友とせんといふ、僕豈好友を得るを喜バざらんや」と返信して高浜清を激励した。子規数え年25歳、高浜清18歳、のちに日本の俳句文学を革新することになる二人の交わりがこのときからはじまる。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
『子規全集』別巻1(子規あての書簡)講談社 1977年3月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

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沈丁花

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沈丁の香の石階(せっかい)に佇みぬ 高浜虚子(昭和18年4月12日)



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虚子「赤椿」の句

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造化又赤を好むや赤椿


高浜虚子、昭和23年(1948)2月11日作の句。「造化」は造物主。

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