大原一族

大原観山(ブログ本年3月1日記事)には、長女八重、長男小太郎、二男恒徳、二女十重、三女三重、三男恒忠、四男恒元の四男三女があった。長女八重は正岡常尚に嫁して子規、律を生んだ。長男小太郎は夭折。二男恒徳は大原家の継嗣で、五十二銀行の役員。二女十重は藤野漸に嫁した。藤野漸は宝生流の謡の名人で、五十二銀行の頭取。明治俳句界で異彩を放った藤野古白(潔)はその子である。三女三重は五十二銀行員岸重崔に嫁した。その子、喜二雄は日本興業銀行総裁。三男恒忠は加藤姓を名のり、ベルギー公使、衆議院議員、貴族院議員、松山市長などを歴任。詩文に長じ、拓川の号をもつ。四男恒元は三鼠を号とする俳人で、岡村姓を名のった。

この大原一族には文化的な明るい雰囲気があったと安倍能成(1883-1966)はいう。

私の観察では、私達の少年の頃は、松山の士分中大原家の一統(もしくは一族一類)が、松山の文化の中心を形作って居たやうに思ふ。この一統は旧藩時代の身分は高い方ではなく、むしろ低いのが多かったかと思ふ。もっとも維新以後勢力を得た連中が軽輩に多かったのは、各藩に通じた現象であったけれども。大原家の主人は大原武右衛門(号観山)といひ、私はその人の生前を知らないが、中々頑固なところもあり、散髪令が出た後も、結髪をやめなかったさうである。前にもいった如く私の父(注-安倍義任)はこの人に師事して居て、随分親しい交わりがあったらしく、私の家の二階の茶室に観山先生から来た手紙ばかりを張った襖があった。(中略)
一言にいってこの大原一統の家庭に、松山の外の家庭より高い文化的教養があったこと、質素の中に多少とも進歩的で因習に執はれぬ明るい空気のあったことは、否定されなかったやうに思ふ。此等の家に比べて私の家庭が陰鬱で自由に乏しいことを、その頃から感じて居た。(安倍能成『我が生ひ立ち』)


子規、明治25年夏の句「鯛鮓や一門三十五六人」(前書「身内の老幼男女打ちつどひて」)、28年春の句「故郷はいとこの多し桃の花」(前書「松山」)は、この一族に明るい雰囲気があったことを窺わせるものでもある。

【典拠文献・参考文献】
安倍能成『我が生ひ立ち』岩波書店 1966年11月
『子規全集』第1巻(俳句1)講談社 1975年12月
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年6月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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