「正岡子規母堂令妹住居址」(松山市湊町)

明治21年(1888)5月、子規の母八重と妹律は長く住みなれた湊町四丁目一番地の家から、湊町四丁目十六番戸(大原家屋敷十番地内)の新築の家に移った。この家は八重の実家の大原家が二人のために建てたものであったが、四畳と六畳の二間だけの極めて小さな住まいであった。その家の跡には「正岡子規母堂令妹住居址」碑がたっている(松山市湊町四丁目・中の川筋緑地帯)。
DSCF1125_convert_20111216143836.jpg

まだ学生であった子規は夏季休暇や新年の休暇ではこの家に帰っていたが、明治25年(1892)の夏季休暇中、同じくまだ学生であった夏目漱石が子規を訪ねて来松(8月中旬)、この家で八重手造りの松山鮓を子規、虚子とともに食べている。以下はそのときのことについての虚子の記述。

私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大学の帽子を被っている姿である。(中略)その席上には和服姿の居士(注-子規のこと)と大学の制服の膝をキチンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって松山鮓とよばれているところの五目鮓が拵えられてその大学生と居士と私との三人はそれを食いつつあった。他の二人の目から見たらその頃まだ中学生であった私はほんの子供であったであろう。また十七、八の私の目から見た二人の大学生は遥かに大人びた文学者としてながめられた。(中略)その席上ではどんな話があったか、全く私の記憶には残っておらぬ。ただ何事も放胆的であるように見えた子規居士と反対に、極めてつつましやかに紳士的な態度をとっていた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に残っている。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静坐して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸をとるのであった。(高浜虚子『漱石氏と私』一)


この漱石の訪問から三月を経た同年11月13日、八重と律は東京に住む子規と同居するため松山を出立した。故郷との永別を覚悟しての旅立ち、八重と律は以後、東京の人となる。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード