正岡子規「ごちそう論」

ごちそうを食べなければいい仕事はできない、ごちそうは活力の源だというのが子規のいわゆる「ごちそう論」。子規は周囲の者にもごちそうを食べるよう極力勧めた。

虚子君も青々君(注-松瀬青々)も無精とは申し候へども怠慢なる次第には無之(これなく)勉強しながら仕事の捗取(はかど)らぬ様に見受申候。個様(かよう)に無精なるには色々の原因可有之(これあるべく)候へども畢竟は身体の活動の鈍きに基き申候。身体の活動の鈍きは即ち栄養の不十分に原因致し候者故、此無精を直さんとならば御馳走を喰ふが第一に御坐候。小生は両君に逢ふ度に御馳走論を担ぎ出して勧告致居候。両君のみならず世の中に立って一定の職業に従事し劇烈なる生存競争に勝たんとせらるゝ諸君には御馳走を勧め申候。御馳走を贅沢の如く思ふは大なる誤にて、富も智慧も名誉も一国の元気も皆此御馳走の中より湧き出で可申(もうすべく)候。もっとも御馳走と申し候ても正月の筍を喰ひ、舶来の罐詰を賞翫する様な奢侈をいふ者にあらず、一口に具象的に申候はゞ牛をおたべなされと申事に御坐(ござ)候。牛が無ければ豚にても宜しく豚が無ければ鳥にても宜しく鳥が無ければ魚にても宜しく候。坐って居て頭脳を使ふ人は小量の食物より多量の滋養分を取らざるべからざる故、猶更(なおさら)牛が宜しく候。(中略)東洋流の粗衣粗食論は久しきものにて小生なども幼時より此主義によりて育てられ候故、弱き体をいよいよ弱く致し候。若し初より御馳走主義を実行せしならば今日の如くかひなき身とはなるまじきものをと存(ぞんじ)候。(正岡子規「消息」ホトトギス第3巻第3号 明治32年12月10日)


子規のその論のかなめは動物性たんぱく質を摂れというもの(「牛をおたべなされ」云々)。子規より20歳年長の内藤鳴雪が、

一体、私ども士族の日常生活といえば、頗る簡単で質素なものであった。まず、食物は邸内にある畑で作った野菜をもって菜とし、外に一年中一度に漬けてある沢庵を用いる。魚類は出入りの魚屋から買うのであるが、それも一ケ月に三日(さんじつ)といって、朔日十五日廿八日の祝い日に限り、膳に上ったもので、その他は「オタタ」の売りに来る白魚位を買った。(『鳴雪自叙伝』六)


と言っているように、前近代以来の日本人の食生活は極端な粗食で、動物性たんぱく質の不足が著しかったから、子規のその論は当時にあっては至極適切なものであった。

河東碧梧桐は「のぼさんと食物」という一文の中で、子規が唱えたこの「ごちそう論」に言及している。

健啖のせいでもあったが、持論というほどのものではなかったが、二タ口目には、御馳走論を振りまわして、人間食い物を吝(おし)むようでは、何事も出来ない、と一言に喝破してしまった。財産収入の許す限り、ウンと御馳走を食え、と誰にでも賄(すす)めた。坂本四方太は、総てにつつましやかな、几帳面な男であったが、鳴雪同様、骨と皮のように痩せていた。写生文の振った時代は、そうでもなかったが、二、三度書いたものが余り出来がよい方でないと、きまって、四方太も、もちっと御馳走を食わんといかんなア、と心から歎息したりした。その時、四方太は、これでも子規先生より御馳走を食っているつもりだ、と言ってわざわざ弁解に根岸まで出かけたりした。


碧梧桐のその一文には次のような記述も見える。

食後には、大抵果物をとった。柿時分、蜜柑時分、時には林檎、梨など、その顔を見ないことはなかった。柿は中でも好物であったと見えて、樽柿が出はじめる、と午後のお八つにも二つ三つ、いかにも食い足りなそうにたべた。(中略)
が、奈良の御所柿、岐阜のふゆ柿、そういう高級品でないと、などという贅沢は言わなかった。言わなかったのでなくまだ知らなかったのだ。東京で一番うまい、安物の樽柿で満足していたのだ。
柿ばかりではない、食べものの贅沢ということを知らない、書生気分で終始したのだ。食べものの贅沢を知るまで生きてもいなかったし、懐ろも乏しかったのだ。


「ごちそう論」を唱えた子規であったが、贅沢なものを食べていたわけではなかったようである。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
河東碧梧桐『子規を語る』岩波文庫 2002年6月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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