北条・西の下(にしのげ)

俳人・高浜虚子(1874-1959)は北条の「西の下(にしのげ)」というところで幼少期を過ごした。以下はその「西の下」についての虚子の記述。

私は四国の一隅にある松山といふ小都会に生れました。(中略)私はその南の方の市街のほゞ中央のところ(注-虚子の生家は湊町4丁目の子規生い立ちの家の北隣り)で生れたのでありますが、生れた年に一家をあげて松山から三里あまり隔ってをる風早の西の下といふところに移住しました。それは父が百姓になるつもりで、家族を連れて移住したのでありました。(中略)
幼い私の目に初めて映った天地は、その西の下の風光でありました。東の方には河野氏の城阯であるといふ高縄山がそびえてをりまして、それからずっと北に渡ってゐる山脈の流れに恵良、腰折といふ風折烏帽子のやうな二つの山がありまして、それから海の中には、鹿島といふ鹿のをる島がありまして、それから西の方の海の中には、千切、小鹿島、他に二つの岩が並んでをりました。夕方になると、日がこの千切、小鹿島の後の方に落ちまして、白帆が静かにその前に浮んでをりました。夜になると狐火が高縄山の麓の方にチラチラ灯ることがありました。私の家は畑の中に四軒並んでゐるその一番北のはづれの家でありました。この四軒は皆同じやうな考へのもとに帰農した人々でありまして、交際するのもこの四軒の人々だけでありました。(中略)
すぐ近くに、あまり大きな川ではありませんが、それでも大川とよんでをる川がありまして、それに土橋がかゝってをりましたが、その橋のたもとの堤の上に、大師堂がありました。その大師堂のほとりに石が立ってをりまして、その石に「阿波のへんろの墓」と古風な字を刻んでありました。これは沢山来る遍路の中に、この道端で亡くなった一人の遍路の墓であらうと思はれました。生国は何処かと訊いた時分にその遍路は阿波と答へたものでありませう。何か哀れな物語がありさうに思へるのでありました。



↓ 上引に言及のある西の下大師堂
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↓ 大師堂の傍らにある「阿波の遍路の墓」
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↓ 同じ場所には虚子の胸像と句碑(「この松の下にたゝずめば露のわれ」「道のべの阿波の遍路の墓あはれ」)がある。
「この松の~」は虚子、大正6年(1917)10月15日の句。詞書には「帰省中風早柳原西の下に遊ぶ。風早西の下は、余が一歳より八歳迄郷居せし地なり。家空しく大川の堤の大師堂のみ存す。其堂の傍に老松あり」とある。「道のべの~」は虚子、昭和10年(1935)4月25日の句である。
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「西の下」は虚子にとって心の原風景ともいえるところであった。晩年、虚子は伊予に帰省するたびに、「西の下」に立ち寄り、「阿波の遍路の墓」を拝したという。この墓が何者かによって取り去られたとき、虚子は深く悲しみ、自費で新たに「阿波の遍路の墓」を建てた。「この松の下にたゝずめば露のわれ」の句碑は昭和3年(1928)の建立。のちにこの句碑に「道のべの阿波の遍路の墓あはれ」を併刻した。

【典拠文献】
『定本高浜虚子全集』第13巻(自伝回想集)毎日新聞社 1973年12月
和田茂樹編『子規と周辺の人々』(増補版)愛媛文化双書刊行会 1993年9月
『虚子五句集(上)』岩波文庫 1996年9月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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