松山城・登り石垣

松山城には城郭の備えとしては全国的にも珍しい「登り石垣」が残存している。「登り石垣」は城山の麓から山頂までを登るように造られた石垣。松山城では、山裾の二之丸と頂上の本丸の間に南北二本一対の「登り石垣」が設けられており、その南の一本(230m余)がほぼ完全な形で残っている(北の一本は一部残存)。築造時にはこの二本の石垣の上に渡塀(わたりべい)や二重櫓などが設けられていた。こうした「登り石垣」は洲本城や彦根城などにも見られるが、規模としては松山城のものが最も大きい。

「登り石垣」は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のおり、日本軍が侵攻の拠点として朝鮮半島の各地に築いた「倭城」にそのルーツがあるといわれている。「倭城」の多くでは、城の防御力を高めるために山腹に石垣が築かれていた。のちに松山城を築く加藤嘉明や洲本城主の脇坂安治は、その「倭城」の一つの安骨浦城にいたが、帰国後、この城での経験を活かしてそれぞれの居城に「登り石垣」を造ったのではないかと推測されている。

↓ 松山城・南登り石垣(県庁裏登城道沿い)
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【参考文献】
内田九州男・武智利博・寺内浩編『愛媛県の不思議事典』新人物往来社 2009年3月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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