明治28年9月20日、石手寺での子規

明治28年(1895)9月20日―、
病後を養うため松山に帰郷し、漱石の住む愚陀仏庵に身を寄せていた正岡子規は、この日、郷里の友人柳原極堂(当時の号は碌堂)を誘って外出、松山の東郊を吟行した。子規の紀行『散策集』にはこの日のことが記されているが、なかに次のような記載がある。

橋を渡りて寺(注-石手寺)に謁づ こゝは五十一番の札所なりとかや(中略)大師堂の縁端に腰うちかけて息をつけバ其側に落ち散りし白紙 何ぞと開くに当寺の御鬮(みくじ)二十四番凶とあり 中に「病事は長引也 命にはさはりなし」など書きたる 自ら我身にひしひしとあたりたるも不思議なり
  身の上や御鬮を引けば秋の風


『坂の上の雲』「須磨の灯」の章に、

石手寺に入り、大師堂の縁側で腰をおろしてしばらく息を入れていたとき、足もとにたれがすてたか、半紙大ほどのおみくじが風にうごいていた。子規はそれをひろいあげてじっとながめた。横から極堂がのぞきこんでみると、
「二十四番凶」
とある。そのなかに「病事は長引かん。命には障りなし」と刷られていた。


と書かれているのはこのときのことである。

柳原極堂は後年、富田狸通(松山坊っちゃん会第3代会長)とともに石手寺を訪れ、子規が坐ったその大師堂の縁側で往時のことを語った。

大師堂の縁は、堂の西側は六米、北側は四米の長さで、子規は北側の西角から二枚目と三枚目の縁に腰かけて休んだという。翁(注-柳原極堂)は、その縁板を大事そうにさすりながら、「五十数年前のことじゃが、その時足もとに飛んできたおみくじを拾って読んだ子規は、このおみくじ通りならええがなーと独り言をいった。僕は何とも答えなかったが、この縁板には、その時の子規の温みが染みついているのぞな。あれから子規は遂に松山へ帰ることができなんだ」と、感慨深げに話してくれたのであった。(富田狸通「消えた子規の温みの縁」)


子規のあたたかみが染みついていると極堂がいった大師堂の縁はのちに改築のため、取り払われた。富田狸通は「せめて縁板の一枚でも保存したい」と寺にかけ合ったが、すでに風呂焚きに用いたということであった。「何とか手の打ちようはなかったのかと地下より翁(注-極堂)の叱咤が聞えるようで、申し訳もない残念な事であった」と狸通は述べている。

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石手寺の境内にある「身の上や御鬮を引けば秋の風」の句碑(柳原極堂の筆)。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第13巻(小説 紀行)講談社 1976年11月
富田狸通「消えた子規の温みの縁」(講談社版『子規全集』別巻3「月報」24 1978年3月)
司馬遼太郎『坂の上の雲(二)』文春文庫(新装版) 1999年1月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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