髷を結っていた子規

正岡子規は数え年六歳の時に髷を結った。もう髷を結う必要のない時代、法龍寺内の小学校に通う生徒の中で髷を結っているのは、子規と三並良(子規の母のいとこ)だけだった。子規は髷を嫌がり、「切ってくれ」としきりに言った。

六つ位からもう髷を結ひました。父親が早くなくなったので殿様へお目見えをせんならんので(大抵八つ位からお目見えをする)ございました。御維新になってそれはせずにすみました。髷を結ふたなり、三並(良氏)のと二人で小学校(法龍寺内)へ通ひました。たった二人ぎりが髷を結ふて居るので、大変いやがりまして、切って呉れ切って呉れ言ひました。(正岡八重・碧梧桐記「母堂の談話」明治35年)


子規・三並良の二人が断髪しなかったのは、大原観山(子規の祖父・三並良の伯父)の許しが得られなかったからである。漢学者であった観山は大の西洋嫌いで、終生髷を落とさなかった。子規が数え年九歳の時、三並良の父歌原邁が観山に嘆願して、ようやく断髪が許された。

先生(注-大原観山)は達見家ではあったが、可なりの西洋ぎらひであった。先生の詩の一句に終生不読蟹行書(注-「終生、蟹行の書を読まず」。蟹行の書は横文字の書)と云ふのがあったのを覚えて居る。けれど先生は西洋の事情に通ずることは必要と信じてゐたらしい。夜遅くまで起きて居て、西洋事情を書いた書を幾冊も筆写されたさうだ。これは後で伯母の話である。さう云ふ訳だから先生は終生断髪されなかった。私共も先生の許可がないので、何時までも結髪して居た。此の時どんな心地で居たかは、全く記憶がない。唯一つ覚えて居ることがある。城下の人々は殆んど皆な断髪して、残るのは子規と私と計りのやうだった。此の時である。私の父が可哀さうと思って観山先生の許へ行き、最早松山城下に結髪して居るのは、升(注-子規)と幸(注-三並良)許りになった余り可哀さうだから、断髪を許してくれと嘆願した。此時先生はもうそんなになったか、それでは仕方がないから許すと云はれた。父が帰って之を伝へたので、私共は悦んで、断髪屋へ行った。その時の愉快だったことは忘れられなかったと見えて、今でも覚えて居る。(三並良「子規の少年時代」昭和3年)

祖父観山は大の西洋ぎらひであった。西洋の事情に通じ置く必要はあると称して外国の書籍を種々読まれたが、西洋文明にかぶれて何もかも西洋の真似をするには及ばぬ。結髪の如きは深き淵源と理由のあるもので、西洋に無いからといって直ちに断髪するのは外国におもねるものであると唱へ、死するまで結髪で押通した人であるから、児孫などにも断髪を許されず、子規は再三断髪せんことを願ったけれど、祖父の在る間は致し方なかるべしと母堂は之を免されざりしといふことである。然るに再従兄なる三並良の父歌原氏が一日観山を訪ねて四方山話の折「松山城下で結髪をしてゐる子供は最早正岡の升と私方の幸(良の幼名)ばかりになったので世人から奇異の眼で見られてゐる。学校などでも種々問題になってゐるらしい。子供としては定めて不快な感がするであらう。実に可哀さうであるから断髪を許してやりたいが貴意は如何であるか」と懇談に及んだところ、観山はやゝしばらくして、「世上はモウそんなになったか、致方ない、断髪を免してよからう」と言はれたので、子規等は大悦びで早速断髪屋へ駆け込んだといふことである。(柳原極堂『友人子規』昭和18年)


断髪をした翌年の明治9年(1876)の正月のことを子規は、「十の歳は初めて頭に髷のなき新年に逢へり。此時迄余は髷を結び脇指を横へたり」(「新年二十九度」)と記している。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
『子規全集』別巻2(回想の子規1)講談社 1975年9月
『子規全集』別巻3(回想の子規2)講談社 1978年3月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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