「小さい時分にはへぼで弱味噌でございました」

日本の文芸史上、かつてないほどの剛胆な革新活動をおこなった子規だが、子どものころは「へぼで弱味噌」であったと母八重が語っている。

小さい時分にはよっぽどへぼでへぼで弱味噌でございました。松山で始めてお能がございました時に、お能の鼓や太鼓の音におぢておぢてとうとう帰りましたら、大原の祖父(注-大原観山)に、武士の家に生れてお能の拍子位におぢるとそれは叱られました。近所の子供とでも喧嘩をするやうな事はちっともございませんので、組の者などにいぢめられても逃げて戻りますので、妹の方があなた石を投げたりして兄の敵打をするやうで、それはヘボでございます。(正岡八重・碧梧桐記「母堂の談話」明治35年)

小学校に影浦先生といふのがありましたがそこへ本を習ひに三並の従弟と一所に行きよりましたが、(中略)或時丁度米藤の塀の上から下女が顔を出して居たのを昼見たといふので帰りにそれをこわがりました。(同上)


「米藤」の塀の上に「下女」の顔が見えただけでおびえていた子規。だが、それは臆病であったからではなく、想像力を持ちすぎていたからではなかったかと司馬遼太郎が述べている。

真っ昼間、下女が顔をのぞかせているだけでおじたというのはすこし異常であろう。しかしこれは臆病というよりも、病的なほどに豊富な想像力が、下女の顔ひとつ見てもとほうもない想像を脳裏にえがかせてそのためにこわくなるのかもしれなかった。(『坂の上の雲(一)』)


子規の天性の豊かな想像力が、子ども時分には些細なことにもおびえるという方向にはたらき、長じてからはそれが転じて文学を創り出すという方向にはたらくようになったのかもしれない。なお、「塀の上から~」のエピソードの「米藤」というのは、子規の自宅と同じ町内にあった世良家経営の呉服店。湊町4丁目の今の米周ビルがあるところに長坂家経営の呉服店「米周」があり、その東隣にこの「米藤」があった。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』別巻2(回想の子規1)講談社 1975年9月
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文春文庫(新装版) 1999年1月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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