「正岡子規邸址」(松山市湊町)

おい車屋、長町(ながまち)の新町(しんちょう)迄行くのだ。ナニ長町の新町といってはもう通じないやうになったのか。それならば港町(湊町)四丁目だ。相変らず狭い町で低い家だナア。


子規、晩年のエッセー「初夢」の一節。夢の中での松山帰郷を語った一節である。松山の「長町新町=湊町四丁目」には子規が数え年二歳から十七歳の上京時まで暮らした生い立ちの家があった。

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子規、生い立ちの家跡に建つ記念碑(「正岡子規邸址」碑・中の川筋緑地帯)。この碑の傍らには「くれなゐの梅散るなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ」の子規歌碑もある。

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柳原極堂『友人子規』はこの生い立ちの家について次のように記述している。

正岡の屋敷は一番地である。其北隣といふのが二番地であり、其西が三番地、四番地、五番地となる。其三番地は池内家で高浜虚子の父兄は当時こゝに住んでゐた。四番地は村上、五番地は歌原、歌原家は子規の再従兄の三並良の生家である。ズット後には正岡の屋敷地の西南隅へ大原家が建築して住はれたことがある。これは中の川の方へ橋を架けて出入口にされた。斯ういふ風に西北の方は大原、歌原、村上、池内などの諸家の裏と境を接し、南は中の川の流にかぎられ、東は道路で表門があったといふのが子規の屋敷の周囲である。坪数は約百八十坪であった。表門を入りて十数歩すれば家の入口に達し、少々土間があって正面が玄関四畳、其のすぐ奥が八畳の客間、床と床脇が東を向いて設けられてある。其客間の北側六畳が居間で、其東側、玄関からは北側に当るところに、板敷で凡そ四畳か四畳半と思はるゝ台所即ち食事場があり、其の東に土間で炊事場が附いてゐた。井は家の東庭で門に近きところ、塀の内がはになってゐる。又玄関からも客間の南縁からも往来の出来るやうに本家から南へ葺きおろした三畳の小部屋がある。これが後年子規堂として正宗寺内に移された子規の書斎である。其書斎からも、客間の南縁からもすぐ目の前に見られて生垣ぎはに老木の桜樹がある。花時には実に見事に咲き盛りて中の川の流れを紅く染めてゐた。


上引に言及があるように、子規生い立ちの家の北隣には、高浜虚子の生家池内家があった。子規、虚子の家が隣接していたことについては、虚子がその自伝の中でふれているので引用しておこう。

私は明治七年に松山の、旧名では長町の新丁といふ所に生れました。今は湊町の四丁目となってゐます。その生れた家は、子規の家と背中合せの家でありました。私は何もさういふ事は知らなかったのであります。私が子規に文通し始めた時分に、兄達は、あの正岡の子供かといふ事をいってをりました。兄も、正岡子規がどういふ人であるといふ事は、詳しく知らなかったらしいが、たゞ正岡の家に男の子があるといふことだけは知ってをりました。それが大きくなって、今大学に入ってゐるのであるといふ事を聞いて、さうであったかといふやうな調子で話をしてをった事を聞いてをりました。後に正岡の妹さんで、昨年亡くなりました律子といふ人が居られましたが、それは七十二で亡くなられました。それが私の小さい時分に私を抱いてをって、小便をかけられた事があるといふやうな話をした事がありました。兎に角もとは背中合せの家に住んでゐたのだが、八年許り離ればなれになってゐたので、お互に大きくなってゐることを知らずにゐたのであります。子規も私の事を詳しく知らなかったやうでした。生れた年に私は松山の城下を離れて、風早の西の下といふ所に移住しましたから、子規の記憶にあるわけはないのでありました。三人の兄達の事はよく知ってをりました。


【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『高浜虚子全集13 自伝・回想集』毎日新聞社 1973年12月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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