子規、写生文提唱の意義

子規晩年の文学活動の一つに写生文の提唱がある。

或る景色又は人事を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず只ありのまゝ見たるまゝに其事物を模写するを可とす。(正岡子規「叙事文」明治33年1月)


見たまま、感じたままをリアルに写生した文章を書くべきであるという主張。それは美文意識に囚われていた当時の文筆の徒の一般的な常識を根底から覆すものであった。柳田国男(民俗学者)は子規のこの主張が明治文章界の革新であったとして次のように述べている。

明治の文学は、明治廿二三年頃に革新されたが、独り文章のみは、なほ依然として旧形式に囚はれてゐた。文章が、始めて茲に革新の機運に向ったのは、根岸派即ちほとゝぎす一派(注-子規とその門下)が、写生文を創めてからである。
今から見れば、該派の写生文も、幾変遷を重ねてゐるが、兎に角、写生文は、明治文章界の一新運動であって、これを創唱した人々の功績は、何人も否むことは出来なからうと思ふ。
尤も、同派の写生文は、すべて記事文ばかりであるから、それをもって、直に文章界全体の革新とはいひ得ぬと思ふものもあるかも知れぬが、然し、かういふ事実は確にある。即ち、写生文を知らぬ以前の吾々は、文章といへば、何でも六ケ敷い文字を使って、照応とか、波瀾とか段落とかいふものを作らねばならぬから、尋常人の容易に手の出せるものではないとばかり思ってゐた。少くとも、非常に億劫なものとばかり思ってゐた。所が、写生文を見ると、見たまゝ、聞いたまゝを、飾らず偽らずに書いてある。これならば、文章はそんなに六ケ敷いものではない。何人にでも――考さへあるものならば何人にでも、書けると思ふに至ったことだ。
つまり、文章は元来、思想を発表する手段であるに、従前はこの手段の為めに煩はされて、ともすれば目的を達することが出来なかった気味のあったのを、写生文が破ったのである。(柳田国男「写生と論文」明治40年3月)


誰もが書くことのできる文章、誰もが読んで理解することのできる文章、そういう文章が出現したのは近代以降のことであろうが、近代のその文章語の確立に大きく寄与したのが子規による写生文の提唱であったといえるであろう。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第14巻(評論 日記)講談社 1976年1月
『柳田国男全集』第23巻 筑摩書房 2006年5月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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