『吾輩は猫である』に見える日露戦争(3)

前回のつづき

⑩此脂(やに)たる頗(すこぶ)る執着心の強い者で、もし一たび、毛の先へくっ付け様ものなら、雷が鳴ってもバルチック艦隊が全滅しても決して離れない。(第七回・明治39年1月)

⑪旅順の戦争にも海軍から間接射撃を行って偉大な功を奏したと云ふ話であれば、空地へころがり落つるボールと雖ども相当の功果を収め得ぬ事はない。(第八回・明治39年1月)

⑫普通の人は戦争とさへ云へば沙河とか奉天とか又旅順とか其外に戦争はないものゝ如くに考へて居る。(中略)然し太平の今日、大日本国帝都の中心に於て斯の如き野蛮的行動はあり得べからざる奇蹟に属して居る。如何に騒動が持ち上っても交番の焼打以上に出る気遣はない。(同上)

⑬第一信は活版ずりで何だかいかめしい文字が並べてある。読んで見ると
拝啓愈(いよいよ)御多祥(ごたしょう)奉賀(がしたてまつり)候回顧すれば日露の戦役は連戦連勝の勢に乗じて平和克復を告げ吾忠勇義烈なる将士は今や過半万歳声裡に凱歌を奏し国民の歓喜何ものか之(これ)に若(し)かん曩(さき)に宣戦の大詔煥発せらるゝや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の異境に在りて克(よ)く寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従事し命を国家に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべからざる所なり而して軍隊の凱旋は本月を以て殆んど終了を告げんとす依って本会は来る二十五日を期し本区内一千有余の出征将校下士卒に対し本区民一般を代表し以て一大凱旋祝賀会を開催し兼て軍人遺族を慰藉せんが為め熱誠之を迎え聊(いささか)感謝の微衷を表し度(たく)就ては各位の御協賛を仰ぎ此盛典を挙行するの幸を得ば本会の面目不過之(これにすぎず)と存候間何卒御賛成奮って義捐(ぎえん)あらんことを只管(ひたすら)希望の至に堪えず候 敬具
とあって差し出し人は華族様である。主人は黙読一過の後直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をして居る。義捐などは恐らくしさうにない。(第九回・明治39年3月)


⑫の「交番の焼打」云々は明治38年9月の日比谷焼打ち事件(ロシアとの講和反対・戦争継続を叫ぶ民衆が政府高官邸・警察署・交番などを襲撃・放火した事件)を皮肉ったものであろう。⑬は苦沙弥先生のもとに某華族から凱旋祝賀会の義捐金依頼の手紙が来たことを記したもの。「義捐」は近年では「義援」と書かれることが多いが、元来は⑬にあるように「義捐」と書かれていた。

日露戦争の勝利は一等国になったとの認識を国民の間に生じさせたが、漱石はそうした思いを共有しなかったようである。『猫』の三年後に書かれた『三四郎』の一節、

三四郎は別段の答も出ないので只はあと受けて笑って居た。すると髯の男は、
「御互(おたがひ)は憐れだなあ」と云ひ出した。「こんな顔をして、こんなに弱ってゐては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。(中略)あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢゃない」と云って又にやにや笑ってゐる。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢ふとは思ひも寄らなかった。どうも日本人ぢゃない様な気がする。
「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡(ほろ)びるね」と云った。―熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる。(夏目漱石『三四郎』第一回)


「髯の男」=広田先生の発言を通して語られた漱石自身の思い。「亡びるね」というその言葉は、昭和の時代の無謀な戦争の結末を予見していたかのごとくである。

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【典拠文献】
『漱石全集』第1巻 岩波書店 1993年12月
『漱石全集』第5巻 岩波書店 1994年4月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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