愛松亭(3)

夏目漱石が一時期下宿していた「愛松亭」は、のちに旧藩主久松家の別邸となり、高浜虚子の長兄池内政忠が管理人として住むことになった。虚子『漱石氏と私』にそのことについての若干の言及がある。

この古道具屋の居たという家は私にも縁のある家で、それから何年か後にその家や地面が久松家の所有になり、久松家の用人をしていた私の長兄が留守番旁々其所に住まうようになって、私は帰省する度にいつもそこに寝泊りをした。即ち漱石氏の仮寓していた二階に私はいつも寝泊りしたのであった。それから私の兄が久松家の用人をやめて自分の家に戻って後、そこには藤野古白の老父君であった藤野漸(注-正岡子規の叔父。漸は「すすむ」とよむ)翁が久松家の用人として住まっていた。 高浜虚子『漱石氏と私』(岩波文庫『回想 子規・漱石』所収)


虚子には政夫という兄もいたが、この政夫の娘、鶴(つる)が政忠の養女となり、久松家別邸管理人の家族としてそこに住むことになった。少女時代をこの別邸で暮らした鶴(俳人・今井つる女)はそのころの思い出を次のように語っている。

一番町の御別邸は今、万翠荘と呼ばれている建築物の在る所にあった。こゝは昔、菅という家老の屋敷であった。
こゝの眺めはすばらしかった。南を受けた高台で遥かに久万の連峰が横たわり眼下は城下町松山の市街をひろびろと見下ろすことができた。一番町裁判所の横を入ると門があった。右側は栗田邸(終戦後長く知事公舎となっていた)左側は裁判所の木柵が長々と続いていた。別邸の門は当時黒い木の冠木門で正面が菖蒲田、季節には美しい花を見事に咲かせ、時々町の人が門の外からそっと覗き込んでいることがあった。左手のゆるい勾配の道を登って行くと道が二つに別れる。二つの道の間にかなりの梅林があった。
真直ぐの道をのぼると天神様の小さなお社があり久松家の祖、道真公が祀られてあった。そのうしろは深々とお城山の暗い森になっている。登り切った所は相当に広々とした敷地となっていて、建物は大小二つ蓮池あり薮あり桜の老木あり芍薬あやめの花園もあった。当時お城山は、歩兵二十二聯隊に所属していたので、時々境界線をまちがえたのか鉄砲持った兵隊がどやどや下りて来て慌てて引返す姿を見たこともあった。
建物のうち大きい方は二十畳の書院、大玄関、お茶室など使用せぬ日は閉めてあった。これに附属した建物があって、これに用人西原勝助さんの一家が住んでいた。もう一つは五つばかりの部屋と別棟の納戸をもつ二階家で此処に私達一家が住んだ。
この家はかつて、彼の有名な夏目漱石の「坊っちゃん」に登場する古道具屋いか銀、実は津田という古物商の住居であって漱石が暫く下宿した家である。勿論この土地が久松家のものとなる以前の事である。これは小説の上の話だけではなく事実であって虚子もこの家へ漱石を訪問している。後年この話を叔父から聞いたとき私は驚いて、本当ですか、と聞き返したところ、本当だよ、と真面目な顔して虚子は答えた。私は、六年間起居したあの二階に文豪漱石が僅かの間にもせよ滞在し、あの久万の連峰を眺め、あの井戸端で顔を洗ったであろうことを想像して胸をときめかした。
御別邸が万翠荘となった今日、残っているのは井戸だけらしい。それも庭井戸、つまり庭園の一景として残されているだけで、三四年前見る機会を得たが昔日の面影を偲ぶものは何もなかった。
昔あった井戸は家屋から離れて建てられた屋根つきの大きな井戸端で、廻りは御影石を以て畳まれ、井桁は木で組まれてあった。車から下っている棕櫚縄は太くて幼い私の手にはまわり兼ねる程であった。釣瓶は木製の桶形、鉄の「たが」が懸っていて、これ亦凄く重いものであった。


大正11年(1922)、この久松家別邸にフランス風洋館「萬翠荘」が建てられた。それ以前のもので残っているのは、上引に言及があるように井戸だけである。

DSCF1759_convert_20110515124659.jpg
漱石も使ったと思われる井戸。藩政時代以来のものであるという。

【典拠文献・参考文献】
今井つる女『生い立ち』玉藻社 1977年6月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード