愛松亭(2)

夏目漱石が愛松亭に下宿していたころ、子規の勧めで高浜虚子がそのもとを訪問、二人の交友がこのときから始まった。虚子の『漱石氏と私』にこのときのことが次のように出ている。

漱石氏は大学を出て松山の中学校の教師になっていたので、それを訪問してみることを子規居士から勧められた。三、四年前一度居士の宅で遇った大学生が夏目氏その人であることは承知していたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐ったままで碌に談話も交えなかった人のことであるから、私は初対面の心持で氏の寓居を訪ねた。氏の寓居というのは一番町の裁判所の裏手になって居る、城山の麓の少し高みのあるところであった。その頃そこは或る古道具屋が住まっていて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帯もしない書生上りの下宿生活をして居ったのであった。そこはもと菅(かん)という家老の屋敷であって、その家老時代の建物は取除けられてしまって、小さい一棟の二階建の家が広い敷地の中にぽつんと立っているばかりであったが、その広い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の緑につづいている松の林もあった。裁判所の横手を一丁ばかり這入って行くと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まっている四間か五間の二階建の家があった。私はそこでどんな風に案内を乞うたか、それは記憶に残って居らん。多分古道具屋の上さんが、
「夏目さんは裏にいらっしゃるから、裏の方へ行って御覧なさい。」とでも言ったものであろう、私はその家の裏庭の方へ出たのであった。今言った蓮池や松林がそこにあって、その蓮池の手前の空地の所に射垜(あずち)があって、そこに漱石氏は立っていた。それは夏であったのであろう、漱石氏の着ている衣物(きもの)は白地の単衣(ひとえ)であったように思う。その単衣の肩肌を脱いで、その下には薄いシャツを着ていた。そうしてその左の手には弓を握っていた。漱石氏は振返って私を見たので近づいて来意を通ずると、
「ああそうですか、ちょっと待ってください、今一本矢が残っているから」とか何と言ってその右の手にあった矢を弓につがえて五、六間先にある的をねらって発矢(はっし)と放った。その時の姿勢から矢の当り具合などが、美しく巧みなように私の眼に映った。それから漱石氏はあまり厭味(いやみ)のない気取った態度で駈足(かけあし)をしてその的のほとりに落ち散っている矢を拾いに行って、それを拾ってもどってから肌を入れて、
「失敬しました」と言って私をその居間に導いた。私はその時どんな話をしたか記憶には残って居らぬ。ただ艶々(つやつや)しく丸髷を結った年増の上さんが出て来て茶を入れたことだけは記憶して居る。 高浜虚子『漱石氏と私』(岩波文庫『回想 子規・漱石』所収)


虚子が愛松亭を訪れたとき、漱石はその裏庭で弓の稽古に励んでいた。愛松亭の裏庭には弓の的をかけるための山形の盛り土=「あずち」も設けられていたようである。このときから12年後に漱石が書いた虚子宛の手紙には次のような一節が見える。

松山へ御帰りの事は新聞で見ました。一昨日東洋城からも聞きました。私が弓をひいた垜(あずち)がまだあるのを聞いて今昔の感に堪えん。何だかもう一遍行きたい気がする。道後の温泉へも這入りたい。あなたと一所に松山で遊んでゐたら嘸(さぞ)呑気な事と思ひます。(明治40年7月16日付 高浜虚子宛書簡)


愛松亭の「あずち」は道後温泉とともに漱石の記憶にながく留まっていたようである。

【典拠文献・参考文献】
『漱石全集』第23巻 岩波書店 1996年9月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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