愛松亭(1)

DSCF1642_convert_20110515124809.jpg「萬翠荘」敷地にある「愛松亭跡」碑

夏目漱石が松山中学の英語教師として当地に滞在していたのは、明治28年(1895)4月9日から翌年4月11日までの1年間。この間の漱石の寄寓先は、①三番町「きどや旅館(城戸屋旅館)」(4月9日より数日間)、②一番町「愛松亭」(4月~6月下旬)、③二番町「上野義方邸の離れ(愚陀仏庵)」(6月下旬~翌年4月)であった。このうち①と③については過去のブログ記事で取り上げたので、ここでは②について記しておくことにしよう。

②の「愛松亭」があったのは城山の南麓、現在「萬翠荘」の敷地となっているところである。「萬翠荘」が建てられる以前、この土地には平屋建ての母屋と二階建ての離れがあり、蓮の生えた大きな池もあった。「愛松亭」はこの二階建ての離れの称で、もとは料理屋、漱石が松山に赴任したころには、骨董商津田安五郎(保吉)の所有となっていた。漱石が上記の期間、下宿していたのはこの離れの二階である(漱石以前には松山中学の前任英語教師カメロン・ジョンスンが住んでいた)。子規宛の手紙の中では、この下宿先のことを「小生宿所は裁判所の裏の山の半腹にて眺望絶佳の別天地」(明治28年5月28日付)と記した漱石だが、小説『坊っちゃん』の中では骨董商「いか銀」宅として、次のように描かれている。

町はづれの岡の中腹にある家で至極閑静だ。主人は骨董を売買するいか銀と云ふ男で、女房は亭主よりも四つ許(ばか)り年嵩の女だ。(中略)
夫(それ)からうちへ帰ってくると、宿の亭主が御茶を入れませうと云ってやって来る。御茶を入れると云ふから御馳走をするのかと思ふと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。此様子では留守中も勝手に御茶を入れませうを一人で履行して居るかも知れない。亭主が云ふには手前は書画骨董がすきで、とうとうこんな商売を内々で始める様になりました。あなたも御見受け申すところ大分御風流で居らっしゃるらしい。ちと道楽に御始めなすっては如何ですと、飛んでもない勧誘をやる。(中略)
亭主が茶を飲みに来る丈(だけ)なら我慢もするが、色々な者を持ってくる。始めに持って来たのは何でも印材で、十ばかり並べて置いて、みんなで三円なら安い物だ御買ひなさいと云ふ。田舎巡りのヘボ絵師ぢゃあるまいし、そんなものは入らないと云ったら、今度は華山とか何とか云ふ男の花鳥の掛物をもって来た。(中略)学校の方はどうかかうか無事に勤まりさうだが、かう骨董責に逢ってはとても長く続きさうにない。(『坊つちやん』二・三)


『坊っちゃん』の主人公は「いか銀」の振舞には閉口していた。これはある程度の事実を反映したものであったらしく、漱石は村上霽月宛の手紙の中で次のようなことを述べている。

今日お手紙拝見。坊っちゃん御ほめにあづかり難有(ありがたく)奉謝(しゃしたてまつりそうろう)候。(中略)赤しゃつも野田もうらなりも皆空想的の人間に候。津田の所ハ少々かき候が過半はいい加減なものに候。実歴譚でもない様に候。(明治39年4月12日付)


「津田(=いか銀)の所ハ少々かき候」というのは事実あったことを少々書いたという意味であろう。津田の振舞が主な原因であったのだろうか、「眺望絶佳の別天地」ではあったが、漱石はこの「愛松亭」に三カ月ほど住んだだけで、次の下宿先、二番町上野義方邸の離れに移るのである。

【典拠文献・参考文献】
霽月村上半太郎翁生誕百年祭実行委員会『霽月句文集』 1978年11月
『漱石全集』第2巻 岩波書店 1994年1月
『漱石全集』第22巻 岩波書店 1996年3月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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