常信寺

常信寺(松山市祝谷東町) 天台宗
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松平(久松)家の菩提寺四箇寺(他に大林寺・法龍寺・法華寺)の一つ。松平定行の霊廟(県指定記念物・史跡)、松平定政の霊廟(県指定記念物・史跡)、浅山勿斎の墓(市指定記念物・史跡)などがある。

幕府瓦解直後の慶応4年(1868)1月25日、藩主定昭は前藩主勝成とともに城を出てこの寺に入り、新政府に恭順の意を示した。松山藩の降伏-『鳴雪自叙伝』に常信寺でのその降伏劇の一齣が記されているので、引用しておこう。

いよいよわが藩が土州に向って恭順を表した上は、新藩主及び前藩主は、松山城北の常信寺へ退居して、謹慎せられ、土州軍総督の深尾左馬之助は軍隊を率いて松山城の三の丸へ入込んだ。(中略)土州軍は前にもいった如き、内々の好意もあって、形式的にこそ我藩地を占領したのであるけれど、実際においてはただ三の丸に軍隊を繰込んだまでで、その他は何事にも手を着けない。それで藩の政庁は従来通り役々が出勤して事務を執る。その場所は明教館の学問所が広かったからそこを使用していた。また藩主父子の側仕えをする人々も従来の如く常信寺へ代りあって詰めた。しかも藩主の御機嫌を伺うといって一般の藩士も日々常信寺へ出頭した。(中略)続いて長州総督堅田大和及び副たる杉孫七郎が常信寺へ来ることになった。(中略)そこで常信寺の藩主側にあっては、何しろ官軍の総督が来るというので、それぞれ準備をして、一体ならば藩主定昭公は寺の門前へでも出迎われねばならぬのであるが、そこは病気といって、礼服を着用して書院の下の間まで出られて、上の間に通った堅田総督に対し朝廷向よろしくお取成下されたいとの挨拶をせられた。総督からも何とか口を聞いたであろう。而してそこを立去る際、副たる杉孫七郎は忽ち下座の藩主の側へ来て、ただ今は職務上失礼をしました。御心底は察し入るから、朝廷へは十分にお取成をしましょうというような、個人としての丁寧なる挨拶をした。これも我々松山人には聞伝えて頗る好感を与えた。(内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』十一回 岩波文庫)



【典拠文献・参考文献】
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 近世下』1987年3月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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