明治17年8月の高潮被害

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三津厳島神社参道脇の地蔵尊の裏にある「豫州溺死者招魂碑」-明治17年(1884)8月25日の高潮で犠牲となった人々を悼んで建てられたものである。同日の高潮は県内の海沿いの地域に多大の被害をもたらした。『愛媛県史』はこのときの被害について次のように記している。

温泉郡山西村字大可賀新田では、午後十一時ごろ、高潮のため北西の堤塘が一時に決壊、一帯は潮が充満し、戸数約七十戸のうち溺死者五十三人、家屋の流失四十九戸、田畑流失約五十三haの被害を一瞬のうちにこうむり、集落壊滅の大惨状となった。このほか、各地の海岸部は軒並み浸潮されたようで、三津浜港の堤防崩壊、伊予郡内では浜村字新田で四十haが荒廃、尾崎村で家屋流失約二十戸、串村・大久保村で家屋流失・破壊七十戸、西垣生村今出で死者九名。西宇和郡内では死者三十一人、家屋の倒・破壊数十戸、田畑流出百三十九ha。東宇和郡田之浜浦で溺死者五人、同高山浦で家屋流出七十八戸などの惨状を呈した。


県内では大可賀一帯の被害が最も甚大であったようである。このときの高潮については、三津の古老たちによる次のような証言がある。「国鉄三津駅の手前まで帆かけ船が流れて来た。その後死人を魚市から大可賀附近にかけてならべていた」、「船ケ谷まで水が行った。久万の台まで人々は逃げた。大可賀の所の家が流れた。魚市から大可賀にかけて死人がならべてあった」。いずれも1958年発行の『古老にきく-三津浜思い出話-』に記載されている証言。1960年発行の『三津浜誌稿』にも、「当時海水は古三津の山根あたり、松ノ木、船ケ谷にも及び、小舟が流れ着いたとも云われている」との記述が見出される。

[高潮は、台風や発達した低気圧の接近により、海面が異常に高くなる現象。]

【参考文献】
三津浜中学校社会科クラブ編『古老にきく-三津浜思い出話-』1958年3月
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 社会経済六 社会』1987年3月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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