三津の煉瓦

その昔、三津の梅田町には煉瓦や土管などを製造していた三津浜煉瓦株式会社というのがあり、そこに聳える大煙突が三津の町のランドマークとなっていた。1960年発行の『三津浜誌稿』はこの大煙突について次のように述べている。

遠く三津浜を離れて、三津浜の町を展望する時、何時も第一に目につき自慢していたのに、煉瓦場の大煙突があった。明治十八年二月に個人経営の下に創立し、大正二年株式会社となし、大正七年に資本金四十万円に増資し、工場設備を改善完備した工場である。その頃に大煙突二本が煉瓦で建てられ、三津浜の名物となった。当時社長は近藤正平氏であった。


大煙突の聳える三津浜煉瓦株式会社は三津の代表的な企業であった。三津浜商工会が1923年に発行した『みつが浜』は、同社を次のように紹介している。

明治十八年二月個人経営の下に創設せられたものを大正二年組織を変更して資本金弐拾万円の株式会社となし大正七年資本金を倍加して四拾万円に増資し工場の設備を改善して優良の製品を産出することに努めた結果、三津浜煉瓦の声価を高め販路も日々に拡大して需要を充し能はざるほどの盛運に向ふてゐる。現在工場は輪環窯、上り窯、土管窯、乾燥場等多数に有し機械製造の設備も完成して一ケ年千五百万個以上二千万個の煉瓦と十万本以上十五万本の土管とを生産してゐる。製品の種類は赤煉瓦、横、鼻、曲黒煉瓦、各種異形煉瓦、素焼土管、薬掛土管、鉄道用各種土管、上下水道用各種土管で県内は素より九州、中国、阪神地方から遠く朝鮮方面まで販路を有してゐる。現在重役左の如し。
取締役 近藤正平(社長)、清水義彰、松本今一郎、近藤松太郎、香川熊太郎
監査役 新野伊三郎、森亮太郎、渡部満匡
支配人 前田政吉


同社の煉瓦は「三津の煉瓦」として有名だった。愛媛県師範学校編『松山地方の地理歴史』 (1919年)は、「三津の煉瓦」という項目を設けて、次のように記している。

三津の煉瓦 朝美村衣山、久枝村久万の粘土を原料として製造するものにして、工場は三津浜にあり、大可賀に分工場を設けて土管を製し、衣山に分工場を設けて煉瓦を製す。本社は明治十八年の創立に係り、従来はノボリ釜にて製造したりしが、近来(大正五年)新たに輪奐釜を設け、毎日製造するに到りしかば、その産額は急に増加し一ヶ月平均百四十万個を上るに到れり。製造せられたる煉瓦は三津港より積み出し、主として九州北部の工業地及山口地方に於て製鉄所、鉄道工場その他の工場会社の建築に用いられ、又横端黒と称する特産品は、呉海軍工廠にて使用せらる。


1960年発行の『三津浜誌稿』には、「大煙突は(中略)解体工事により最近、大音響とその砂けぶりにの中に、姿を消してしまった」とあるから、三津浜煉瓦会社の大煙突が消滅したのは1950年代後半であろう。煉瓦会社の跡地は、同書発行の時点では「此の土地を買収した大洋漁業が新工場の建設に日夜をわかたず工事を進めている」という状況であったが、この大洋漁業の工場もすでにない。

【参考文献】
愛媛県師範学校編『松山地方の地理歴史』 1919年
栗本諒二『みつが浜』三津浜商工会 1923年
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』 1960年12月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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