漱石、松山で弓の稽古に励む

夏目漱石は松山に赴任(明治28年4月)する一年ほど前より弓の稽古にいそしんでおり、松山でも城山南麓の愛松亭在住時(同年4月~6月頃)、弓の稽古をしていたことは、高浜虚子がそれを目撃している[注1]。愛松亭はもと藩の家老屋敷で敷地も広く、弓の稽古には適していたが、漱石が次に移り住んだ二番町の上野義方邸の離れ(愚陀仏庵・同年6月頃~29年4月居住)は街中の民家。弓の稽古はどうしていたのだろうと思っていたが、漱石と親交のあった村上霽月によると、上野の裏の空き地に弓の稽古場がしつらえてあったそうである。霽月は次のように言っている。

子規居士の帰京後は上野の裏座敷を訪ふことも疎くなったが夫(そ)れでも松山へ出た時は折々漱石君を茲に訪問した。居士の去て後は、君は居士の居った下の座敷で応接して居ったのである。其下座敷は書斎でもあった様である。其室には何時でも一張の大弓を見た。上野の裏の空地に巻藁を吊って大弓の稽古場が拵へてあった。君は大弓を運動の為めに遣って居った様である。君が熊本へ立つ時も鬱金木綿の袋に入れた大弓は自ら携へて汽船に乗るのを見送ったことを記憶する。(村上霽月「漱石君を偲ぶ」初出「渋柿」大正6年2月号)


村上霽月は今出(現在の松山市西垣生)の人、上引は漱石没後に書かれた追悼文である。言及されている上野の裏の稽古場を拵えたのは、漱石自身であったかもしれない。漱石は上野の離れに下宿していたときも、変わらず弓の稽古に励んでいたものと思われる。松山を去るとき、漱石は「鬱金木綿の袋に入れた大弓」を携えて汽船に乗ったと霽月はいう。その一年前、松山中学の新任教師としてこの地に着いたときも、やはり同じように漱石はそれを携えていたのであろう[注2]。

[注1]-ブログ2010年2月15日記事参照→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-218.html

[注2]-夏目漱石が松山中学の新任教師としてこの地に着いたのは、明治28年(1895)4月9日(三津浜港着)。松山を去ったのは、翌年4月11日(同港発)。

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【典拠文献・参考文献】
霽月村上半太郎翁生誕百年祭実行委員会『霽月句文集』 1978年11月

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