「おなぐさみ」

昨日のブログ記事でふれたように、「おなぐさみ」はもともと「三月節供」にともなう山磯遊びのことであった。松山地方の人々にとってこのうえない楽しみだった「おなぐさみ」。正岡子規、水野広徳はこの「おなぐさみ」の思い出をそれぞれ次のように述べている。

郷里の風俗におなぐさみといふことあり。春暖のころにもなればささえ重箱など携へて親族友だちさそひ合せ石手川の堤吉敷の土手其他思ひ思ひの処に遊び女子供は鬼事摘草に興を尽し老いたるは酒のみながら鬼事にかけまはる女子供をみてうちゑむめり。
  なぐさみや花はなけれど松葉関  正岡子規『寒山落木』巻五(明治二十九年)

余の郷里にては時候が暖かになると「おなぐさみ」といふ事をする。これは郊外に出て遊ぶ事で一家一族近所合壁などの心安き者が互にさそひ合せて少きは三四人多きは二三十人もつれ立ちて行くのである。それには先づ各自各家に弁当か又は其他の食物を用意し午刻頃より定めの場所に行きて陣取る。其場所は多く川辺の芝生にする。(中略)こゝを本陣として置いて食時ならば皆こゝに集って食ふ、それには皆弁当を開いてどれでも食ふので固より彼我の別はない。(中略)食事がすめばサア鬼ごとゝいふので子供などは頬ぺたの飯粒も取りあへず一度に立って行く。女子供は普通に鬼事か摘草かをする。それで夕刻迄遊んで帰るのである。余の親類がこぞって行く時はいつでも三十人以上で、子供が其半を占めて居るからにぎやかな事は非常だ。(中略)半日運動して、しかも清らかな空気を吸ふのであるから、年中家に籠って居る女にはどれだけ愉快であるか分らぬ。(中略)歌舞伎座などへ往て悪い空気を吸ふて喜んで居る都の人は夢にも知らぬ事であらう。 正岡子規『墨汁一滴』明治三十四年四月十日条

その頃の松山では「おなぐさみ」ということがよく行われた。西洋のピクニックの様なもので、一家揃って郊外に行って食事をするのである。松山にはまだ公園というものがなかったので、「おなぐさみ」は大概石手川の堤防や川原へ行くのであった。笹井でもお婆さんの達者であった頃には、春や秋のよい季節になると、筍が出たと言っては、蚕豆が出たと言っては、松茸が出たと言っては、伯母の得意の松山ずしなどを作って、随分よく川原へ出掛けたものである。(中略)「おなぐさみ」の場所は大概木小屋口の付近で、天保山か又は橋下の川原であった。(中略)まず適当の場所に席を定め、川原の石で応急の竈を造り、川水を汲んで沸かし、重箱を開くのである。時にはその場で湯豆腐などの簡単な料理を作ることもあった。
いつ行っても四組や五組の「おなぐさみ」連中を見ないことがなく、少し遅く行くとよい場所は先客に占められて了うのが常であった。天保山の対岸の芝原が閑静で最も良い席とされて居たのである。
三月三日の節句は子供の「おなぐさみ」であった。十歳ぐらいまでの子供は、男女を問わず、お節句の御馳走を小さい重箱に詰めて貰い、互いに友達の家に往来して御馳走を交換しながら「おなぐさみ」をするのであった。そして翌四日は大人の「おなぐさみ」日で、川原も、土手も、満員の大賑い。歌う者、踊る者、三味線をひく者。太鼓を叩く者、恰も東京の花見風景であった。(中略)「おなぐさみ」で最も面白かったことは、御馳走を食べることよりも川原での砂遊びや川で泳ぐことであった。四、五月頃から寒さにふるえながら泳いだのである。「今日はおなぐさみに行くのじゃ」と聞いた時の嬉しさは何に譬えるものもなかった。 水野広徳「自伝」


上引に出る「なぐさみや花はなけれど松葉関」の句の「松葉関」は、石手川沿いのどこかに当たるのだろうが、正確な場所は不明。水野広徳の自伝に出る「木小屋口」は現在の中村橋に通ずるところ、「天保山」は木小屋口の橋(中村橋)の下流右岸に石で築いた突堤だそうである。子規、水野広徳の記述によれば、松山地方では、「三月節供」に限らず、弁当を持って郊外に出ることはすべて「おなぐさみ」と称されていたようである。

[おなぐさみについては、2010年3月21日のブログ記事でも述べた。→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-240.html]

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年6月
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
『水野広徳著作集』第8巻 雄山閣出版 1995年7月

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