FC2ブログ

伊予の節分

正岡子規は幼少時の伊予の節分の思い出を『墨汁一滴』の中で語っている。それによると、昔の伊予の節分は、鬼やお多福に扮した門付の芸人たちが家々をめぐりあるく、結構にぎやかなものだったようである。

(門付芸人の)女はお多福の面を被り、男は顔手足総て真赤に塗り額に縄の角を結び手には竹のささらを持ちて鬼にいでたちたり。お多福先づ屋敷の門の内に入り、手に持てる升の豆を撒くまねしながら、御繁昌様には福内鬼は外、といふ。この時鬼は門外にありてささらにて地を打ち、鬼にもくれねば這入らうか、と叫ぶ。そのいでたちの異様なるにその声さへ荒々しければ子供心にひたすら恐ろしく、もし門の内に這入り来なばいかがはせんと思ひ惑へりし事今も記憶に残れり。鬼外にありてかくおびやかす時、お多福内より、福が一しょにもろてやろ、といふ。かくして彼らは餅、米、銭など貰ひ歩行(ある)くなり。やがてその日も夕になれば主人は肩衣を掛け豆の入りたる升を持ち、先づ恵方に向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向ひ豆を撒き福は内を呼ぶ。これと同時に厨にては田楽を焼き初む。味噌の臭に鬼は逃ぐとぞいふなる。撒きたる豆はそを蒲団の下に敷きて寝れば腫物出づとて必ず拾ふ事なり。豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払にやるはいづこも同じ事ならん。たらの木に鰯の頭さしたるを戸口々々に挿むが多けれど柊ばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。(『墨汁一滴』明治34年2月4日条)


門付遊芸の風習があったこともさることながら、他にも興味深い記述がこの文章にはある。「豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払にやる」―これは節分の豆に「厄」をうつして外に捨てたことを意味するものであろう。民俗学者の五来重によると、節分の豆というのは、もともと鬼を追い払うためのものではなく、「厄」をうつして外に捨てるものであったという。豆を年の数ほど白紙につつんで体をなで「厄」をうつしてから、それを「厄」や「穢れ」の捨て場である道の辻や特定の塚などに捨てた(のちにはただ戸外に捨てるようになった)。ところが、節分の夜の来訪者を邪悪な鬼とする観念ができたために、この豆が鬼を追い払うための豆と考えられるようになったというのが五来重の考えである。豆に「厄」をうつして捨てる。節分本来のものだったらしいこの習俗は、松山では終戦後のある時期まで残っていたことが報告されている[注]。

鰯の頭や柊を門口に立てる習俗があったことも、子規の記述からはうかがえる。これは一種の魔除けの呪術であるが(『土佐日記』に「小家〈こへ〉の門〈かど〉の注連縄〈しりくべなは〉の鯔〈なよし〉の頭〈かしら〉、柊〈ひゝらぎ〉ら」云々とあるのはこれと同種)、松山にはこうした風習はもう残っていないだろう。

[注]-越智二良「節分とおなぐさみ-子規の随筆から-」(1975年)に「厄落しの習俗はほとんど絶えたのであるまいか。終戦後にも松山の私の家の近くの辻に、古ふんどしであったか猿股であったか、豆まきの豆を紙にくるんだものとが捨てられてあるのを見たことがある」との記述がある。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
越智二良「節分とおなぐさみ-子規の随筆から-」(「伊予の民俗」6号 1975年4月)
五来重『宗教歳時記』角川選書 1982年4月
『新岩波古典文学大系24 土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』岩波書店 1989年11月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード