「緋の蕪」

「松山城の天守閣が見えるところでないととれない」、「日招八幡(松山市保免)の太鼓の音が聞こえるところでないととれない」とかいわれる当地特産の「緋の蕪」。子規は随筆『筆まかせ』の中で、この「緋の蕪」は近江(滋賀県)日野の「日野蕪」が原種であるという説を紹介している。

緋ノ蕪は葉茎根共に鈍紅色を現はし、根の内面は淡紅色也。煮て食ふこと能はず、必ず塩漬にして食ふ。其味甚だ美なり。こは我郷里伊予松山の産物にして他所に生ぜず、松山にても城下二三里の間に過ぎず。其種を東京などへ持て来て種ゆるに、初めの年は淡紅色を現はせども、次の年は真白となりて通例の蕪となるよし。故に松山人は皆我地固有の者と思へり。然るに去年吉川氏の話を聞くに「此蕪は近江の日野なる処より種を取り来りし故ニ日野蕪と称ふる也。緋ノ蕪にあらず。近江に行けば必ず之れあらん。又近頃越前の人の話を聞くに同国にも有之由(これあるよし)、又近江の蕪は根の内面まで真赤也」云々と。余此春汽車にて出京の際、近江米原にて弁当を取りしに、其中に緋ノ蕪あり。勿論漬物なればよくは分らねど、恐らくは根の内面も濃紅色なるものならんと思はれたり。旅行する人ためし見給へ。(『筆まかせ』第二編 明治二十三年「緋ノ蕪」)


農学者、菅菊太郎が大正13年(1924)に発表した「伊予緋の蕪の由来」という論文でも、「緋の蕪」は近江日野の「日野蕪」が伝播したものであると述べられている(下記)。

伊予緋の蕪は其形状より察する時は、日野名産の所謂日野菜にあらずして、寧ろ紫蕪(又名日野蕪)及びひこね菜の種類なるべしと信ぜらるゝものなり。(中略)日野菜は他地方に移すと共に変色変質するが為に伝はらざりしものと解釈するを穏当とすべく、独り紫日野蕪のみが今日伊予緋の蕪となりて固定残存せるものと判断して可なるべし。


近江の「日野蕪」が当地に伝播した経緯について、同論文では次のような二つの伝承を紹介している。

サテ此に不思議なるは、蒲生氏(注-戦国大名蒲生氏郷はもと近江日野城主)の転封せられたる地方は何れも日野菜蕪が栽培せられたる事にして、日野菜蕪と蒲生氏が常に離れざる関係にありし事なり。即ち蒲生氏郷は種芸農殖に心を潜める名君なりしにや、之を伊勢松阪方面にも伝へ、又会津方面にも伝へられたるの伝説厳存す。(中略)今伊予緋の蕪の如きも之を蒲生氏の入部(注-寛永4年〈1627〉、蒲生氏郷の孫、忠知が松山に入部)に結び附けて、其伝播の由来を考察せざるべからず。

伝説に曰く、久松定行松山入部(注-寛永12年〈1635〉)の節、鉄砲鍛冶岡治兵衛吉定なるもの、供廻りとして随従し松山に来り、現今の鉄砲町に屋敷を拝領して住居す。(同時旧清水町を改めて鉄砲町と呼ぶと云ふ、)当時松山附近に赤色蕪は絶て無かりしかば、吉定之を遺憾なりとし、己れが桑名地方にて栽培せし事実にも顧みて、其生国江州(注-近江)日野村より、所謂日野菜蕪の種子を取寄せ(飛脚によると云ふ)しめ、之を城下附近の農家に分配試作せしめたるもの是れ今日の緋の蕪の起源なりと。


いずれにしても、「緋の蕪」の原種は「日野蕪」と見て間違いないようである。緋色に由来すると考えられている「緋の蕪」の名称も、『筆まかせ』に言及があるように、「日野蕪」のあて字と見た方がよさそうである。

【典拠文献・参考文献】
菅菊太郎「伊予緋の蕪の由来」(「伊予史談」36号 1924年6月)
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月

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