二宮敬作-『ふぉん・しいほるとの娘』の記述

吉村昭の小説『ふぉん・しいほるとの娘』は、シーボルトの娘、お稲(楠本イネ)を主人公とした歴史長篇。シーボルトの門人で、伊予卯之町(現・西予市宇和町)に開業した蘭方医、二宮敬作も主要な登場人物として出る。地元では「医聖」ともいわれた二宮敬作は、小説では次のように紹介されている。

敬作は医者というよりは武士のような風貌をしている。決してととのった顔立ちではなく、色は黒いし殊に鼻がつぶれたように低い。が、眼だけは「学問のよくできる医者」らしく澄みきっていた。

敬作は、名医として高い評価を得ていた。診断は的確で、病状に応じて薬草をあたえる。手術の技倆には殊にすぐれ、大胆にメスをふるう。(中略)
敬作は、患者を貧富によって差別することは全くしなかった。むしろ、富裕な家から病気とも思えぬ者の往診を乞われると、腹を立てて使いの者を追い帰す。そして、尚も乞われると出掛けて行って診断し、
「どこも悪いところはない。起きて働け」
などと荒々しい声をあげたりした。
貧しい者からは治療費をとらず、代りに作物などを持ってくると、
「そのような物があるなら、病人に食わせてやれ」
と言って、帰した。
深夜でも急病人が出たときくと、どのように遠い山中にも往診する。そして、重病人には夜を徹して治療にあたった。


二宮敬作は、文化元年(1804)、宇和郡磯崎浦(現・八幡浜市保内町)に生まれた。16歳のとき、長崎に遊学。文政6年(1823)、ドイツ人医師シーボルトが来日、その門人となる。同9年、オランダ商館長の江戸参府に同行。同11年、シーボルト事件(同人の帰国に際して、国禁の日本地図などの持ち出しが発覚した事件)に連座し、町預となる。天保元年(1830)、江戸立ち入り禁止、長崎追放の判決を受けて、郷里に帰り、上須戒村(現・大洲市)で開業。同4年、宇和島藩主伊達宗紀の命により、卯之町で開業。安政6年(1859)、シーボルトが再来日し、長崎で再会を果たす。文久2年(1862)、長崎にて死去、享年五十九。

二宮敬作はシーボルトの娘、イネを卯之町に呼び寄せて、彼女が産科医となる道を切りひらいた。高野長英や村田蔵六(大村益次郎)とも交流があり、当時を代表する蘭学者の一人だった。1909年刊のライプチヒ版『ドイツ人名事典』に日本人としては珍しくその名が出ているという。

【典拠文献・参考文献】
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 人物』1989年2月
吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』(上)(下) 新潮文庫 1993年3月

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テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

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