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船手

江戸時代、三津浜には船手と呼ばれる士卒がいて、藩の御用船の操船、管理にあたっていた。船手は、寛永12年(1635)、松山藩主、松平定行によって三津に配置されたもので、その数およそ400人、同じく三津に置かれた船奉行がこれを統率した(船奉行所があったのは現在の三津浜支所辺り)。船手の下には水主(かこ)がいて、雑務にあたった。御用船の基地は、三津の北端にあり、御船場(おふなば)と呼ばれていた(現在の住吉2丁目内)。御船場はほぼ正方形に近い形で、周囲には石塁が築かれ、四方を海面に接していた。御船場の四隅と堀川側の計5か所には番所が置かれ、作事小屋、材木蔵、木枕小屋、板蔵、船道具小屋、楫蔵、帆柱小屋、苫小屋が竹垣に囲まれて建てられていた。御船場の北側辺りが船入り場で、160隻もの藩有船が係留していた。御船場の南側には、江ノ内(のちの江ノ口)からの一本橋が架かっていて、これが御船場へ行く唯一の道であったが、北浜通り、辻井戸通りを境に、竹垣や塗蔵番所で区切られ、一般町民の出入りは禁止されていた。辻井戸も当時は船手の専用水である。船手とその家族は大工町、船頭町、住吉町などで組住まい(長屋住まい)をしていた。

松山藩士であった内藤鳴雪の自叙伝に、船手とその下に属する水主についての記述があるので引用しておこう(鳴雪については当ブログ3月7日記事「内藤鳴雪が語る江戸時代」を参照していただきたい)。

この藩の船に乗込んでいる船手というは、藩の扶持を貰っていて、常には藩地の三津の浜というに妻子と共に住まっている。その下に水主というものがある。これは藩地の海岸や島方などから、一定の期限があって順番に徴発したもので、常には漁業などしていた。私どもの乗った船にも上には船手数人、下には水主が数人居た。それらの煮炊万端はもっぱら水主にやらせるので、船手は坐して命令するだけである。この両者は大変に隔があって、水主は悪くすると船手に虐められる。それでもよく辛抱したもので、その状は私も目撃して、水主は可哀そうなものだと思った。



鳴雪は松山藩所有の船についても言及している。それによると、藩の船には、関船(せきぶね)と呼ばれる藩主・重臣専用のもの、藩士の往来に使うもの、大坂へ米を積み出すためのものなどがあった。藩主の乗った関船が三津浜港から出航する時には、印の旗を立てたお曳船という船が多数出て、お船唄を歌いながら沖まで付き従い、藩主の船を見送ったという。

伊予鉄三津駅の宮前川を挟んだ向かい側にある住吉神社は、御船場入口西側に住吉明神(船玉)として祀られていたものを明治10年(1877)頃、現在地に移したものであるらしい。本殿前の手水石には、「御船手中 弘化三[一字湮滅]午年 六月吉日」の刻がある(弘化三年〈1846〉の干支は丙午だから、湮滅の一字は「丙」と思われる)。神田町、厳島神社の玉垣の万延元年(1860)造立部分には、「御船手中」の刻が3か所に認められる。

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【典拠文献・参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
大石慎三郎監修『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』平凡社 1980年11月
池田善昭「松山市三津浜の港町としての盛衰について」『歴史地理学』122号 1983年11月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 近代上』1986年3月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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