子規、『草花帖』の完成

『草花帖』は15点の草花を描いた子規の写生画帖。明治35年(1902)の8月1日に描き始め、同20日に最後の朝顔を描き入れて完成とした。子規はこの20日の朝顔写生のことを『病牀六尺』の中で次のように述べている。

今日は水曜日である。朝から空は霽れたと見えて病床に寝て居っても暑さを感ずる。例に依って草花の写生をしたいと思ふのであるが、今一つで草花帖を完成する処であるから何か力のあるものを画きたい、それには朝顔の花がよからうと思ふたが、生憎(あいにく)今年は朝顔を庭に植ゑなかったといふので仕方がないから隣の朝顔の盆栽を借りに遣った。ところが何と間違へたか朝顔の花を二輪ばかりちぎって貰ふて来た。それでは何の役にも立たぬので独り腹立てて居ると隣の主人(注-陸羯南)が来られて暫くぶりの面会であるので、余は麻痺剤を服してから色々の話をした。正午頃に主人は帰られたが、その命令と見えて幼き娘たちは朝顔の鉢を持って来てくれられた。まだ一つだけ咲いて居ますと眼の前に置かれるのを見ると紫の花が一輪萎れもしないで残って居る。其処で昼餉を終へて後写生に取り懸ったが大略の輪郭を定めるだけにかなりの骨が折れて容易には出来上らない。幼き娘たちは幾らか写生を見たいといふ野心があるので、遊びながら画の出来るのを待って居た。(以下略) 『病牀六尺』百三回


『草花帖』の最後に描かれている朝顔は、正岡家の隣に住む陸羯南が娘たち(巴〈ともえ〉とその妹)に持たせてよこしたものであった。このときのことはドラマ《坂の上の雲》第7回放送でも描き出されていたが、ドラマでは羯南の娘、巴がチマチョゴリ姿で子規の家を訪れていた。巴がチマチョゴリを着て子規の家に来たのは、子規が『草花帖』を描いた前の年の明治34年9月5日である。ここらあたりはドラマとしての脚色であろう。

引用は省略したが、羯南の娘たちは子規の傍らで絵を描いたりして遊びながら、朝顔の絵が出来上がるのを待っていた。やがてそれにも飽きると絵の完成も見ずに帰ってしまったと、『病牀六尺』(百三回)の記述にはある。子規の『草花帖』はこの朝顔の絵をもって完成した。その絵には「八月二十日午後 牽牛花アサガホ」と添えられている。子規が世を去ったのはそれからおよそひと月後の明治35年9月19日であった。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
『子規全集』第14巻(評論 日記)講談社 1976年1月

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テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

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