松山中学時代の子規

正岡子規は明治13年(1880)春に松山中学に入学、16年、上京を理由に中退するまで、同校で学んだ。その間、試験優秀につき、二回賞品(三等賞)を授与されているから、成績は必ずしもわるくはなかったのだが、当人は学校の勉強にはあまり関心が向かなかったようである。松山中学時代の子規が熱中していたのはまず漢詩作り、「老桜漁夫」などと号して友人らと漢詩を作る会「同親会」を結成し、当番の会員宅で盛んに詩会を開いていた。子規はこのころのことを「学校の課業抔(など)はそっちのけとして詩を勉強したりし」(『筆まかせ』「哲学の発足」)とふりかえっている。漢詩につづいて熱中したのは政談演説の類。夜に城山や寺で演説の稽古をして、松岡という英語教師から注意を受けたり、松山中学の講堂(明教館)で実際に演説をおこなって、教官に中止を命ぜられたりしたことがあった。「余は在郷の頃明治十五、十六の二年は何も学問せず、只政談演説の如きものをなして愉快となしたることあり。今より見れば大に余の進歩を妨げたるに相違なけれども只一ツの利益せし事は聴衆の前にて演説することに多少馴れたるの一事也」(『筆まかせ』「演説の効能」)というのは、当時をふりかえっての子規の言である。明治16年5月、子規は松山中学退学を決意、自作の漢詩で「松山中学只虚名 地少良師従孰聴(松山中学ただ虚名 地に良師少なくたれに従ってか聴かん)」と述べる。同年6月8日、東京の叔父加藤拓川から上京を促す手紙を受け取るや、2日後には三津浜港から上京の途についた。前年暮れの演説会で子規が論じた「海南は英雄の留まる処に非ず、早くこの地を去りて東京に向ふべし」[注]が、このとき実現したのである。

[注]-明治15年12月17日の青年会で子規がおこなった「諸君将ニ忘年会ヲ開カントス」という演説で、「海南は~」と述べている。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第8巻(漢詩 新体詩)講談社 1976年7月
『子規全集』第9巻(初期文集)講談社 1977年9月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月

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テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

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