愚陀仏庵(2)-「新文学の発祥地」

漱石は明治28年(1895)8月27日から五十余日にわたって、愚陀仏庵で子規と同居したときのことを後年、次のように語っている。

なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処に居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あった。上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かったが、兎に角自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った。(「談話」ホトトギス11巻12号 明治41年9月1日)


漱石は子規が無断で下宿にころがり込んで来たと述べているが、事実は違い、漱石のほうから子規に同居を促したのであった。「止むを得ず俳句を作った」というのも事実ではなく、子規の影響をうけて俳句に開眼した漱石が積極的に句作に励んだのであった(当ブログ2009年4月29日記事参照)

日本の近代文学の巨頭となる子規・漱石が同居し、ともに句作に励んだ愚陀仏庵。柳原極堂はこの二人の愚陀仏庵時代の思い出として次のようなことを語っている。

ある日、自分がいつものように愚陀仏庵にいってみると、隣の部屋で子規と漱石が話をしていた。おたがいに、東京に出て大いに日本の文学を興そうではないかと、抱負を語りあっているのであった。自分はふすまのかげでそれを聞いて心をうたれた。この時のふたりの誓いがやがて実現されたのだから、愚陀仏庵は、日本の新しい文学の発祥地として大切にされなければならぬ。(和田茂樹編『子規と周辺の人々』よりの引用)


子規・漱石の二人は愚陀仏庵で、日本文学の新天地を切りひらくべく、互いの思いを語りあったのであった。子規・漱石がのちに作り出す多彩な作品群は、この愚陀仏庵での二人の文学熱が巨大なエネルギーとなって結晶化したものであったともいえるであろう。愚陀仏庵はそうした意味で、「日本の新しい文学の発祥地」だったのである。

明治28年10月19日、子規は東京に帰るべく三津浜港を出航した。子規にとっては五十余日におよんだ愚陀仏庵での生活が郷里での最後の日々となった。漱石は翌年の春まで松山にとどまる。

行く我にとどまる汝(なれ)に秋二つ


郷里出立に際しての子規の惜別の句。前書きには「漱石に別る」とある。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第22巻(年譜 資料)1978年10月
和田茂樹編『子規と周辺の人々』(増補版)愛媛文化双書刊行会 1993年9月
『漱石全集』第22巻 岩波書店 1996年3月

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