愚陀仏庵(1)-『坊っちゃん』の「萩野」

明治28年(1895)4月、夏目漱石は中学の英語教師として松山に赴任した(翌年春まで在松)。当初、漱石は三番町の城戸屋旅館に宿泊していたが、ほどなく一番町の愛松亭に移り、6月には二番町の上野義方邸の離れに住まいを移した。漱石、松山時代の寓居「愚陀仏庵」というのはこの上野義方邸の離れのことである[注]。

上野義方は二百石取りの松山藩士だった人で、維新後は当地の豪商米九の家宰をしていた。漱石を下宿人として迎えたころは七十歳近くの老人で、夫人と長女、およびその長女の娘である孫と暮らしていた。上野義方はその家族と平屋造りの母屋に住み、隠居所として建てた二階建ての離れを漱石に貸した。その離れは上下とも四畳半と六畳の二間造りとなっており、母屋とは廊下でつながっていた。

漱石の小説『坊っちゃん』では、二番町のこの上野義方邸は「萩野」の名で出る(三番町の城戸屋旅館は「山城屋」、一番町の愛松亭は「いか銀」として出る)。小説ではこの「萩野」は老夫婦の二人暮らしとされ、次のように描かれている。

その夜から萩野の家(うち)の下宿人となった。(中略)こゝの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方共上品だ。爺さんが夜になると、変な声を出して謡をうたふには閉口するが、いか銀の様に御茶を入れませうと無暗に出て来ないから大きに楽だ。御婆さんは時々部屋へ来て色々な話をする。どうして奥さんをお連れなさって、一所に御出でなんだのぞなもしなどゝ質問をする。(中略)萩野の御婆さんが晩めしを持ってきた。(中略)見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。こゝのうちは、いか銀よりも鄭嚀で、親切で、しかも上品だが、惜しい事に食ひ物がまづい。昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、かう立てつづけに芋を食はされては命がつづかない。 (『坊っちゃん』七)


近藤英雄著『坊っちゃん秘話』によると、この芋の煮つけのくだりは事実を反映するものではないという。食物の豊かな松山では芋の煮つけをおかずにしたりはしないと、同書では次のように述べている。

当時芋は一貫目(三・七キロ)が三銭から五銭まで、米一キロ八銭、芋一キロなら一銭五厘くらいの割合の値段であった。芋はむしろおやつにするのが普通で、米作の出来ない瀬戸内海の孤島では芋を米食の代用としたが、松山のような都会で毎晩のように煮つけをおかずにするなどは考えられない。この地方は、魚類が豊富で安いから、つつましい老夫婦の家庭でも芋をおかずにしたりはしない。それほど最低に近い食べ物をたべさせたということは、漱石の誇張した文章のいたずらであろうが、上野の婆さんの冤(ぬれぎぬ)をそそいでおいてあげたいと思う。


漱石は上野の離れで芋の煮つけばかり食べさせられたわけではなかったようである。明治28年の8月27日、漱石が住んでいたこの上野の離れに正岡子規がころがりこんで来た。子規は病気療養のために同月25日に帰郷していたのだが、実家はすでに松山になく、伯父の家に二晩泊まってから、漱石のもとに移り住んだ。以後、子規・漱石の二人は五十余日にわたってこの上野の離れで起居をともにする(階下に子規、二階に漱石が住んだ)。この間、漱石は子規の俳句熱に影響され、盛んに句作をするようになった。愚陀仏は当時の漱石の俳号、この俳号により上野の離れを「愚陀仏庵」と称したのである。

愚陀仏は主人の名なり冬籠 漱石




[注]-上野義方邸(二番町八番戸、現在の二番町3丁目)は戦災で焼失。跡地は現在、駐車場。愚陀仏庵跡を示す石碑がたっている。石碑の碑表には「夏目漱石仮寓愚陀仏庵趾」、碑陰には「夏目漱石松山中学校教師として松山市二番町八番戸上野氏邸に寓す その居を愚陀仏庵と称す 明治廿八年正岡子規帰松して起居を共にすること五十余日に及べり 昭和廿六年九月 子規五十年祭祝賀会建之」とある。愚陀仏庵の建物は一番町、萬翠荘裏に復元されたが、昨年夏、豪雨による土砂崩れのため全壊した。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)1978年10月
近藤英雄『坊っちゃん秘話』青葉図書 1983年11月
『漱石全集』第2巻 岩波書店 1994年1月
秦郁彦『漱石文学のモデルたち』講談社 2004年12月

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愚陀仏庵跡

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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