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明治23年1月5日、子規、三津で新年会を開く

子規の青年時代の随筆『筆まかせ』に「明治二十三年初春の祝猿」と題する一段がある。同年(1890)1月5日に子規、太田正躬、柳原正之(如水・極堂)、藤野潔(古白)、秋山真之の同郷五人が会した新年会の模様について記したもので、「~祝猿」の表題は「四国猿」と呼ばれた四国出身者の祝宴であることを示したものであろう。以下、この一段の一部を示し、若干の解説を加えておくことにしよう。

明治二十三年一月余が郷里伊予松山に帰省して病を養ひゐたりし頃、丁度在坂の旧友、太田正躬氏も帰省しゐたりしかば、共に相談して五日の午後、三津の生巣(いけす)に飲まんとて、太田、柳原正之、藤野潔三氏と共に秋山氏をさそふ。同氏あらず、乃ち下婢に其旨をいひ残して同家を出づ。


明治23年正月、当時の子規はまだ学生、冬休みに帰省した子規は上記の親友たちと「三津のいけす」で新年会を開くことになった。参会者、太田正躬、柳原正之はこのときすでに社会人(以下の本文では「紳士」といっている)、藤野潔、秋山真之は学生の身分であった[注]。会場の「三津のいけす」は三津の船場町にあった高級料亭「溌々園」である。当日、五人は三津口停車場(現在の市内電車萱町六丁目電停付近にあった旧・古町駅のこと)から汽車に乗って三津に向かう。子規、太田、柳原、藤野は遅れて来る秋山を三津口停車場で待つ。

三津口停車場に至りて汽車を待つ間に秋山氏も来れりしかば、同車にて三津へと出で立ちぬ。けふは余等も紳士の仲間入りなれば、勿論中等の切符を買ひたるはいふまでもなし。秋山は後から来て、殊に気がきかぬ故、下等切符を買ふ。乗車の時に際し、余は秋山にめくばせし、君は気がきかぬよ、けふは我々も紳士だよ、下等切符とはお気がつかれたなァと口には得こそいえばえに、腹の中の苦しみを目まぜ顔つきのこなしにて、団洲よろしくといふ身ぶりしければ、秋山もさうかといった様な顔をして直様(すぐさま)切符を隠し、何が扨(さて)、ぬかりはせぬといふ顔にかへて、中等列車へと乗り組みぬ。


太田、柳原は「紳士」たる身分であったので、汽車の切符は中等を買う。子規、藤野も今日は「紳士の仲間入り」ということで同じく中等の切符、遅れて来た秋山は「気がきかぬ故」、下等の切符を買った。子規が秋山に目配せして知らせると、秋山はそうかといった顔をして、すぐさま下等の切符を隠し、ぬかりはせぬと中等列車に乗り込んだ。やがて三津に到着、会場に向かう。

都々一学者の筆をからば、
書生三人紳士は二人 三津によったり五人づれ
かくて酒は一めぐり二めぐりすると始まった始まった、悪口でかためた、素顔でさへ、思ふこといはでやみなば腹ふくるゝ抔(など)と前書つきでしゃべってゐた紳士偽紳士の口さきは益(ますます)、軽くなりにけり。(中略)終(つい)には秋山までが管を巻き出し「柳原、お前は才子だ」と公言すること五度に及べり。余傍から「松山才子の相場も大概きまったなァ」 秋山「太田に忠告することがある。妻をとるとも大阪の女は取ってくれるな。それよりは松山の女をとれェよ」 余等先刻よりよってたかって大阪紳士をいじめたり。


「書生三人紳士は二人 三津によったり五人づれ(三二三四五の数字の語呂あわせ)」の宴会がかくて始まる。だれかれの悪口で宴席は盛り上がる。秋山真之が酔って、大阪で教師をつとめる太田にからむ。「大阪の女を娶るな。松山の女を妻にしろ」と太田に要らぬ忠告をする秋山。愛郷心よりの発言であろうか。

こんどは余に向ひ、秋山「正岡にいふが、お前学校を卒業しても教師にはなるなよ。教師程つまらぬものはないぞい、併しこうやってお前がいきておるのは不思議だ」などゝ独り面白がりてしゃべりちらす。如水が三津の猫を呼ばふ抔(など)と、はや紳士然たる振舞に、おのれこしゃくなと余は頭から一も二もなく此建議に反対せしが、起立満場の姿にて、此議案は消滅し、八時半の最終汽車にて帰松したり。


秋山の攻撃(口撃)は今度は子規に向かう。「生きているのが不思議だ」などと言われては子規もかたなしである(子規は前年5月に喀血)。宴たけなわ、柳原は三津の芸妓を呼ぼうと提案するが、これはあえなく却下。ついにおひらきの時間となって、五人は最終列車で松山に帰った。子規はこの文章を次のように締めくくっている。

此日の会ハ近頃愉快を余に与へたる者なり。何となれば此五人が一堂に会して酒を飲みたることは、天地開闢已来始めて也。又此五人が一堂に会して酒を飲まんことは、今より後、地球滅亡の際迄恐らくは無き事なるべければ也。然らば之を千載一遇といはんよりは、寧ろ無窮の時間内に只一たび起りし空前絶後の会なりかし。


明治23年1月5日、三津「溌々園」での新年会、同郷の親友が会したこの宴席は、子規にとって青年時代の最も楽しい想い出となったのではなかろうか。


[注]-子規=第一高等中学校生(明治19年4月に東京大学予備門が第一高等中学校と改称)、太田=大阪商業学校教員、柳原=海南新聞記者、藤野=同人社少年塾生か、秋山=海軍兵学校生。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
和田茂樹『子規の素顔』愛媛県文化振興財団 1998年3月

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子規らが新年会を開いた「溌々園」のあったところ。三津内港改修工事によって「溌々園」の跡地の過半は海中に没した。

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

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