伊藤博文の三津浜訪問

明治42年(1909)3月14日、伊藤博文(当時韓国統監)が来県(同28日まで本県滞在)。同25日には三津浜を訪問して、船場町(現在の住吉2丁目)の料亭「溌々園」で盛大な歓迎会が催された。「海南新聞」はその日の模様を次のように記している。
三津浜の統監歓迎会 
二十五日午後二時伊藤公爵は鮒屋旅館を出発し、道後駅発特別列車にて三津駅に来着。同駅にて町会議員、有志者の歓迎を受け、関村三津署長を先導とし一行を始め安藤知事並に県高等官・新聞記者等と共に腕車に乗し、会場溌々園に臨場したり。 是れより先き、統監の坐乗せる特別列車の古三津村家並をはづれ進行し来るや、烟花を打揚げ、帰館時迄間断なく全町国旗を掲げ、住吉町・藤井町の通路は掃除撒水行届き、順路両側は歓迎人を以て満たされ、稲荷新地入口、江の口橋には緑門を建設し、歓迎の扁額を掲げ、会場溌々園入口は幔幕を張り、国旗を交叉し、玄関大花瓶には桜花を挿し、大広間は金屏風を以て飾られ、床に狩野縫殿介藤原永常筆の山水三幅対を掛け、木蓮を活け、井手友一郎氏珍蔵の富士形奇石を置き、床脇には春芙蓉題詠帖、額上には松田定五郎氏秘蔵の帯江楼記を掲げ、次十畳の間には松柏等盆栽を配置し、越智磯次郎氏の手に成れる白山雪中の月江の島袖が浦等の盆石五枚を並べ、金屏風を以て囲ひ、尚ほ統監の観覧に供ふる為め、常信秋帆法眼英信雪舟の芦船加藤清正書の百戦百勝等の軸幅扁額を用意する等、準備装飾一つも間然する所なく、統監には殊の外満足の様見受けられ、一行の着場するや統監には用意の席に於て前記書画及び三宅建海外十数名文人墨客諸氏の作詩揮毫を見、村田少将、古谷秘書官、安藤知事以下諸随行官は、同園生洲飼養の鯛釣を試みしが、折柄干潮の為め餌喰ひ悪しく、漸くに二三尾を釣漁せしのみにて、四時三十分より配膳酣となるや 統監は興乗じて同園の作詩一篇を賦し、逸見同町長の発声に連れて一同伊藤統監万歳を三唱するや、公は起て三津浜町万歳を三唱し、会衆之れに和し和気藹々の裡に退席。統監には諸随行官を従へて、午後七時十二分三津駅発特別列車にて無事道後帰館たりし。(明治42年3月27日付「海南新聞」 句読点は引用者の付加)


三津での歓迎会が催された「溌々園」は子規が何度も訪れた高級料亭。子規在世当時は歌原邁(子規の大叔父)がその経営者であったが、伊藤博文の来園時は香川伴次郎が経営者であった。

伊藤博文は来県時、道後の歓迎会で、「余の祖先は伊予河野氏の末流、林淡路守通起なり。明年は通起の三百回忌の法要を営む心算なり」[注]と演説したが、その法要を営むには至らず、愛媛訪問7カ月後の10月26日、ハルビン駅頭で射殺された。

[注]-伊藤博文の父は周防国熊毛郡束荷村の農民、林十蔵(のちに重蔵)。林家の先祖は16世紀後半の武将、林淡路守通起(伊予河野氏の出)であるという。十蔵はのちに萩の足軽、伊藤直右衛門の養子となり、伊藤姓を名のるようになった。

【参考文献】
『愛媛県百科大事典』上巻(原田治郎執筆「伊藤博文」の項) 愛媛新聞社 1985年6月
二神将「子規と三津の生洲(溌々園)―なぜ子規は「いけす」によく行ったか―」(「子規会誌」107号 2005年10月)
伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』講談社 2009年11月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード