秋山真之「煎り豆お送り下されたく候」

秋山真之はなんとも無頓着な性格で、彼の伝記(秋山真之会編著1933年刊)にはそれを物語る次のようなエピソードが記されている。

①佐藤中将の話だが、曽て同中将が英京ロンドン留学時代、これも当時米国に留学してゐた秋山将軍がロンドンへやって来た時、一緒に街路を歩くのに将軍は洋服のポケットに煎豆(いりまめ)を忍ばせて置き、それをポリポリ食べながら平然として歩き回るのには、見っともなくて閉口したといふ事である。

②日露戦役後将軍の第一艦隊参謀長時代、司令長官の上村大将以下幕僚と毎日食卓を共にして会食中、上村長官がいつものやうに晩酌をゆっくりと嗜んで居ると、秋山将軍は晩酌はやらぬのでサッサと飯を済ませてから、いつも定ったやうに靴下を脱ぎ片足を上にあげて、長官の面前で指間の水虫をゴリゴリ掻き始める。長官は如何にも酒がまづいと言った顔で、それを眺めてゐるが、御本尊の秋山将軍は一向平気でゴリゴリやってゐる。傍の幕僚連長官に対し気の毒でもあるが、それにも気づかず無心で掻いてゐる将軍の様子を見てゐると滑稽でもあり、笑ひを押しこらへてゐるのが苦しかったといふ。

③将軍は執務しながら、よく放屁をする人であった。しかも妙な癖で殊更力を入れて勢よく一発放って置いて、「あゝ、屁か!」と言って、笑ひもしないで済ましてゐる。「実際秋山といふ人は変な人だったよ」 飯田中将が笑ひながらその話をしてゐた事があった。


そんな秋山であるが、母親に対してだけは謹厳、仕えるがごとき態度を示したようで、同伝記は次のように記している。

母堂は非常に将軍が可愛かったので日露役の出征中は勿論、平時の航海中でも屡々母堂から将軍に対して送り物をされてゐたやうだったが、そんな時将軍は包を解く前必ず押し戴いてからするのが例であった。あの無造作で時に傍若無人でさへあった将軍だけに、これは一入(ひとしお)厳粛な気がする。(中略)日露戦争直前将軍は確か青山高樹町に住んでゐたが、此頃近くの親戚の家に家人が貰ひ湯に行く習慣になってゐた。その頃母堂は病気で足腰が充分でなかったのであるが、将軍は当時既に海軍佐官であったにも拘らず、いつも自ら母堂を背負って貰ひ湯の往復をしてゐたのには、見る人感嘆せざるはなかったといふ。


秋山真之は母親に宛てた手紙の中で、煎り豆を送って欲しいというようなことも書いている。

何か幸便あれば豌豆及空豆二三斗計(ばか)りイリテ御送被下度候(おおくりくだされたくそうろう)


日露戦争の最中の明治37年(1904)11月23日付の母親宛て手紙に上の一文が見える。上引①にも言及があるように、煎り豆は秋山真之の好物であった。

【典拠文献・参考文献】
秋山真之会編著『秋山真之』(復刻版)マツノ書店 2009年4月(原本1933年刊)

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