水野広徳「噫、秋山海軍中将」

大正7年(1918)2月4日、海軍中将、秋山真之死去。同郷の後輩、水野広徳(同年海軍大佐)はその2週間後に「噫(ああ)、秋山海軍中将」と題する追悼文を草し、これを「中央公論」同年三月号に載せた。以下に引用するのは水野の草したその追悼文の一部である。

中将は元来非常なる精力家で所謂「ぢっとして居れぬ人」であった。背はあまり高くなかったが、炬眼隆鼻、全身精力の結晶とも云ふべき風貌であった。

中将は又非常に勉強家であった。僕が中将と同艦したる頃、中将は多忙なる隊務の余暇を以て、毎夜一時頃までも仏蘭西語の稽古をして居られた。又米国留学中の如きも、暇あれば必ず書店に行き、一時間も二時間も、店頭に於て諸種の書物を繙き、必要の個所はノートに書き取り、而かも未だ嘗て一冊の書物も買ったことがない。流石自由主義なる米国書店の番頭もその図う図うしさに呆きれ、横着なる日本人として頗る鼻摘者となり、小僧の如きも殆ど相手にしなくなった。併し中将はそんな事は少しも頓着せず、不格好なる洋服姿を相変らず其の書店に曝らし、手当り次第に書物を引き出し店頭の只読を続行せられた。斯して三月経ち四月経つ中、××書店の日本人と云へば付近の一評判となった程である。此に至って書店の主人も遂に中将の根気と熱心とに降参し、後には店の書物を全部中将に開放し、尚ほ新刊書物の如きは態々取り寄せて見せて呉れたと云ふことである。

中将は又我慢の強きことに於て殆ど比類なく、今回の病気に際しても腸管閉塞の為め瓦斯充満して、腹は太鼓の如く膨らみ、今にも張り裂けさうなのにも拘はらず終に一度として苦痛の言を吐かれなかった。其の忍耐力の強烈なるには、並み居る医師も驚嘆したと云ふことである。

中将は多芸多能にして、趣味の広汎なりしこと誠に驚くべく、殊に事物に対する研究心の強きは、所謂孔子の博奕と雖ども亦益する処あり主義で、スリ泥棒と雖ども研究の価値ありとせられたのである。

中将は趣味の多方面なりし丈け、其の交友の範囲も余程広かった様である。(中略)殊に実業家方面に多数の知己ありしことは、中将逝去の際各方面の有力なる実業家より、続々弔問弔意のあるを見て、流石物に動ぜぬ好古将軍も聊か驚かれたるものゝ如く「あいつ色んな人間を知って居る、不思議な男じゃ」と言はれたに徴しても判かる。

中将は職務上の事を処理する上に於ては、頗る細心緻密であったが、身を持することは極めて豪放洒磊で言はゞ無頓着であった。礼儀作法などの末節に至っては殆ど眼中に無く、服装の如きもカラが曲がろとネクタイが横向うと、そんなことは平気の平左であった。

中将は独り他人に対してのみ無遠慮なるにあらず、己れ自身に対しても亦極めて無頓着の構はず屋であった。(中略)此の無頓着と構はず主義の点に於ては、兄好古将軍も亦相当に猛威を発揮されるので、兄弟能く相似て居るとの評判であった。

中将は金銭に対しては極めて淡白であった。其の代はり屡々金がないないと言はれて居た。交友が広かった丈け其れ丈け交際の費用も嵩むので、軍人の俸給位では到底一円の余裕は無かったであらう。

中将の思想は頗る進歩自由主義で、世に謂ふ軍人的なる狭き型に拘はれて居なかった。大隈伯は中将を評して型に嵌まらざる軍人と云はれたさうである。


秋山真之は軍人の型にはまらない軍人であった。その後輩、水野広徳も同様だったのではなかろうか。水野はのちに海軍を辞めて、ジャーナリストに転身、平和主義に徹して、日米非戦を唱え、軍備の縮小撤廃こそが急務であると主張した。

【典拠文献・参考文献】
『水野広徳著作集』第7巻 雄山閣出版 1995年7月
『水野広徳著作集』第8巻 雄山閣出版 1995年7月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード