砂土手

①短夜(みじかよ)や砂土手いそぐ小提灯(こぢょうちん)
②砂土手や山をかざして櫨紅葉(はぜもみじ)
③砂土手や西日をうけて蕎麦の花


上記はいずれも子規の句。①は明治25年夏、②③は明治28年9月20日の句(『散策集』所収)である。この三句に詠まれている「砂土手」というのは、松山の東郊に造られた土塁のことである(江戸初期の『足立家記』では「外土手」の称)。松山城築城の際、豊臣方の東からの進攻に備えるために造られたが、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したために工事半ばで終わったという。柳原極堂の『友人子規』、高浜虚子の『子規句解』にこの「砂土手」についての言及があるので、引用しておこう。

砂土手は今の県立中学校の手前御宝町が東へ突当ってゐる辺に南北に長く横はりゐたる砂丘のことである。その丘上には櫨(ハゼ)の木がポツポツと立並んでゐた。(柳原極堂『友人子規』)

「砂土手」といふのは、松山の東郊にある土手であって、その上には櫨の木などが植わってをったやうに思ふが今はどうであらうか。私の子供時分にはよく其辺に遊びに出かけたものである。それは松山城の要害の為に築かれたものであるといふ説を聞いたことがある。(高浜虚子『子規句解』)



本日付の愛媛新聞18面記事「砂土手の名残 散策」によると、松山商業高校の通称「高台校舎」付近が砂土手跡であるという。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規遺稿 散策集』(松山市民双書1増補版)松山市教育委員会 1977年11月
高浜虚子『子規句解』(松山市民双書21)松山市教育委員会 1979年3月
高浜虚子選『子規句集』岩波文庫 1993年4月
日下部正盛「加藤嘉明の戦略について-松山城に因んで-」伊予史談318号 2000年7月

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テーマ : 歴史
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