子規の絶筆三句

正岡子規が死去したのは、明治35年(1902)9月19日午前1時頃。その前日の午前11時、妹律と碧梧桐の介添えで、画板に貼った唐紙に「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」の三句をしたためたのが絶筆であった。この絶筆の三句はすべて糸瓜(へちま)の句。子規が辞世に糸瓜の句を詠んだことについて、碧梧桐は次のように述べている。

子規子は兼々「自分が五六月頃に死んだらば方々から追悼句などゝ言ふて、時鳥(ほととぎす)の句を沢山よこすであらうが、それはいやでたまらない。それがいやだから成るべく夏の間に死にたくはない」などゝ話して居ったが、何故子規の名にちなんだ時鳥の句を嫌ふかといふと、時鳥の句といふのは、古来より発句中でも沢山句のある題で、已に仕方のない程陳腐な題である。其陳腐な題では到底よい句は今日得られないといふてもよい位であるに、まして追悼といふやうな更に作句のむつかしい条件をつけては、更によい句の出来やうがない。その悪句が沢山出来るといふ事が子規子のいやで堪らないと言ふた所以であったのである。所が幸にして子規子は亦厭ふて居った夏も過ぎ、丁度名月の前後になって今度は愈々といふ覚悟をきめ、自らも亦た其死期を知ったやうであった(後に思へば)が、さらばと言ふて、こゝで月の辞世でも作らうものなら、是亦た矢張時鳥に劣らぬ陳腐な題であるから、其追悼句も亦た悪句が出来るものと見てもよい。そこで人の思ひもよらぬ、又た形の雅な「糸瓜」を揃へて其辞世を作ったのである。糸瓜の辞世といふ事が単に突飛なといふやうな事ばかりでなく、又た其前庭に糸瓜の棚があったといふ為めでもなく(それらも一原因であらうが)、実は種々錯綜した意味から糸瓜を選んだのである。将に息を引取らんとする数時前に於ても、尚この用意の存して居ったのは、真に驚くべく事と言はねばならぬ。(といふのは其平生に徴して予の推想する所である)。 [河東碧梧桐「俳話断片 廿四」京華週報 明治35年10月19日]


子規が辞世に糸瓜の句を詠んだ所以―上引に述べられているのは、碧梧桐が後から「推想する所」であるが、その「推想」はまとはずれの臆断ではないように思われる。

【典拠文献】
『子規全集』別巻2(回想の子規1)講談社 1975年9月

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テーマ : 歴史
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