名前の付け方

伊勢貞丈(1717-1784)の『貞丈雑記』「人名の部」に、名前を付けるときの法則のようなものが記載されている。

太郎は惣領の子なり。次郎は二男なり。三郎は三男なり。今の世には惣領の子を何次郎・何三郎と名付け、二男・三男に何太郎と名付くるもあり、あやまりなり。又平氏の人は平太郎・平次郎などと名付くべき事なるに、平氏の子に源太郎・藤次郎などと名付くるもあやまりなり。各家々の氏を名乗るべき事なり。

父の名「太郎」なればその子は「小太郎」と云い、その小太郎に子あれば「又太郎」なり。二郎・三郎以下同断なり。「二郎太郎」と云うは二男家の太郎なり。「又二郎」とも云うべし。三男家の太郎は「三郎太郎」又「三太郎」なり。「四郎太郎」以下押して知るべし。

今の世、何兵衛・何右衛門・何左衛門などを百官名にてなしと心得たる人有り、あやまりなり。兵衛・右衛門・左衛門は皆官の名なり。源氏の人兵衛の官になりたるを「源兵衛」と云い、平氏は「平兵衛」、藤氏は「藤兵衛」、橘氏は「吉兵衛」なり〈「橘」と「吉」同音なり〉。右衛門・左衛門もこれに準じて知るべし。又、太郎の人は「太郎兵衛」、二男は「次郎兵衛」、この外もおして知るべし〈清原氏は「清兵衛」、三善氏は「善兵衛」、文屋氏は「文兵衛」などと云うなり〉。


貞丈もいくぶん認めているように、実際には上記の法則通りに名前が付けられていたわけではない。何兵衛・何右衛門・何左衛門の「兵衛」「右衛門」「左衛門」等は、貞丈のいうように官職名(注-古代には左衛門府・右衛門府・左兵衛府・右兵衛府などの軍事組織があった)に由来するものであるが、これについては歴史学者が次のようなことを述べている。

鎌倉時代の有力武士は、相当な金額を朝廷に支払って、官職を買得した。たとえば警察の高級幹部職、左衛門少尉(さえもんのじょう)が一〇〇貫文などの実例が残る。(中略)官職を入手した者は「二階堂左衛門少尉どの」などと、通称ではなくて、官職で呼ばれる。さらにこれが子息にまで影響する。左衛門少尉の三男であれば、左衛門三郎と名乗る。父が肥後守で自身が二男であれば肥後次郎である。(中略)このように、武士の通称には官職が用いられた。それで時が経つうちに、朝廷とは無関係ながら、権兵衛や新左衛門など、官職を含み込んだ通称が多く用いられるようになる。また農民が太郎・次郎より複雑な名を欲するようになると、武士の名乗りが手本となる。官職に由来する名は、村落にも広まっていく。(本郷和人)


どうして百姓が仮名(けみょう)に官職名をつけ始めたかは、まだよくわかっていないんです。律令国家の官職組織が崩れて、官職名が社会のステイタスを示すシンボルになってきたものだと思います。実際に官職の売買や偽の官位も現れてきますから。しかしこういう律令国家の残影が、ついこのあいだまで生きていたということは重要な問題です。私の父は善右衛門ですから、右衛門府の衛門を名前につけていた。久兵衛は兵衛府です。要するに、百姓、平民の仮名にまで、律令国家の影響が全国的に及んでいたことになります。(網野善彦)


官職名が人の名として用いられるというのは、世界的に見るとどうであろうか。日本に特異な現象であるのかもしれない。

【典拠文献・参考文献】
伊勢貞丈 島田勇雄校注『貞丈雑記1』平凡社東洋文庫 1985年4月
網野善彦・森浩一『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』河合出版 1992年5月
本郷和人『天皇はなぜ生き残ったか』新潮新書 2009年4月

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