お好み焼き

小泉武夫著『食と日本人の知恵』に、お好み焼きについての記述があった(下記)。

お好み焼きはいつ、どこで、だれが始めたのかは明らかではないが、一種の遊戯料理の草分け的存在で面白い。一説によると、江戸後期の雑菓子「麩の焼」(春秋の彼岸に仏事用に焼いたもの)に源を持つという。これは、今のお好み焼きのようにさまざまな具を入れて焼くというものではなく、小麦粉を水に溶いて焼き鍋の上に薄く流し、焼けたら片面に味噌を塗ってから巻いた素朴な焼き菓子であった。これが明治に入って、鉄板と小麦粉を備えて思いのまま焼かせたのが「文字焼」となり、大正時代にはいって、魚、肉、野菜を具とする今の型が定着したようである。


上引に言及されている明治時代の「文字焼」については、モース(明治10年代に滞日)の『日本その日その日』に次のような言及がある。

帰途、お寺へ通じる町の一つに、子供の市(注-何かの縁日であろう)が立っていた。(中略)子供達はこの上もなく幸福そうに、仮小屋(注-屋台を指すもの)から仮小屋へ飛び廻り、美しい品々を見ては、彼等の持つ僅かなお小遣を何に使おうかと、決めていた。一人の老人が箱に似たストーブを持っていたが、その上の表面は石で、その下には炭火がある。横手には米の粉、鶏卵、砂糖-つまりバタア[麺粉、鶏卵、食塩等に牛乳を加えてかきまわしたもの]-の混合物を入れた大きな壺が置いてあった。老人はこれをコップに入れて子供達に売り、小さなブリキの匙を貸す。子供達はそれを少しずつストーブの上にひろげて料理し、出来上ると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたりする。(注-モースが米の粉、鶏卵、牛乳を使っていると書いているのは誤認であろう。鶏卵などは当時かなり高価だったはずである。)


小泉武夫の前記書に「遊戯料理」とあるのは、モースの記述にあるような営業形態(客が自分で料理する)を指すものであろう。三津浜や広島のお好み焼きは、この文字焼系統のお好み焼きとは発祥を異にするものであるのかもしれない。

年をとるとソース味というのはどうも苦手になり、三津浜名物のお好み焼きもあまり食べることがなくなった。子供時分、家から数メートル先にお好み焼き屋があったが、夏場にはかき氷屋、冬場になるとお好み焼き屋にもどるという営業形態であったように思う。

【典拠文献・参考文献】
E・S・モース 石川欣一訳『日本その日その日2』平凡社東洋文庫 1970年10月
小泉武夫『食と日本人の知恵』岩波現代文庫 2002年1月
柴田宵曲『明治の話題』ちくま学芸文庫 2006年12月

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テーマ : 雑記
ジャンル : 学問・文化・芸術

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