子規、明治28年9月20日の吟行

『坂の上の雲』「須磨の灯」の章に、子規が柳原極堂を伴って松山の郊外に吟行に出る場面がある(下記)。

松風会の会員で柳原極堂という俳句熱心の若者がある日「愚陀仏庵」にたずねてくると、
「ええとこへきた。石手寺まで散歩しよう」
と言い、着ながしに防暑用のヘルメット[注]をかぶってあるきだした。極堂は不安におもった。石手寺まで往復四キロはあるであろう。からだに障らぬかと不安だったが、当の子規は平気で、途中、あたりの景色をたのしげにながめながら歩いた。途中、三、四十句の俳句をつくった。
石手寺に入り、大師堂の縁側で腰をおろしてしばらく息を入れていたとき、足もとにたれがすてたか、半紙大ほどのおみくじが風にうごいていた。子規はそれをひろいあげてじっとながめた。横から極堂がのぞきこんでみると、
「二十四番凶」
とある。そのなかに「病事は長引かん。命には障りなし」と刷られていた。


この場面は柳原極堂著『友人子規』の次のような記述にもとづいて書かれている。

或好天の日の午後(子規遺著散策集には九月二十日と記されてゐる)予は子規を訪問した。折柄他に誰も居合す人はなかった。是より石手寺まで散歩しよう、君も同行し給へと子規がいふので予は驚いた。石手寺まで往復一里以上はあるべし、それを保養中の君の病躯で散歩するなどとは危険千万と言はねばならぬからお止したがよからうと忠言を試みたが、僕には自信がある。このごろの体力を試験かたがた歩いてみようと志したのだからその心配には及ばぬとて敢て我言を容れない。(中略)最早争ふ余地もなければ予は子規と倶に上野(注-愚陀仏庵)を出て二番町を上に、小唐人町を横ぎり玉川町をのぼって田圃の畔路づたひに砂土手に出た。砂土手は今の県立中学校の手前御宝町が東へ突当ってゐる辺に南北に長く横はりゐたる砂丘のことである。その丘上には櫨の木がボツボツと立並んでゐた。砂土手を越えて持田村を東へ歩み、湯渡り道に出(い)で右に曲って石手川の堤上に上り、其北側の土手を遥か左手に石手寺の塔を望みつゝ東行すれば已に石手寺の近くである。土手を北へ下りて少し行けばすぐ一の門がある。「二の門は二町奥なり稲の花」といふ句が散策集に出てゐる。仁王門を入り山内を少時見廻った後、大師堂の縁端に腰うちかけて其処に我々は休憩した。「杖によりて町を出づれば稲の花」の句を筆頭に、子規の句帳は此時已に三四十句録されてゐた。
『大師堂の縁端に腰うちかけて息をつけば其側に落ち散りし白紙何ぞと開くに、当寺の御鬮二十四番凶とあり中に「病事は長引かん命にはさはりなし」など書きたる自ら我身にひしひしとあたりたるも不思議なり』と散策集に記されてゐる。半紙半枚ほどの大さの御鬮で其の文句はまだ長いものであったが、其中に病事は長引かん云々の句もあったのである。誰かゞそれを此縁端へ棄て去ったのを子規は拾ひ上げたのであった。当時之を見てゐた予は実に悲痛の情に堪へなかった。


明治28年(1895)秋、療養のために一時帰松していた正岡子規は、9月20日・21日、10月2日・6日・7日と5回にわたって松山の内外に吟行を試みている。上引の記述はその1回目9月20日の吟行であった。同年10月19日に松山を発ってからのちは一度も帰省することがなかったので、子規にとってはこの5回の吟行が故郷の名所の見おさめとなった。

[注]-子規がよくヘルメット型の帽子をかぶっていたことについては、高浜虚子『子規居士と余』(岩波文庫『回想 子規・漱石』所収)に言及がある。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月
司馬遼太郎『坂の上の雲(二)』文春文庫(新装版) 1999年1月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

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