三津浜駅(旧国鉄)設置をめぐっての対立

旧国鉄の予讃線(旧称讃予線)が松山まで開通したのは昭和2年(1927)。民間の伊予鉄道が明治21年(1888)に全国初の軽便鉄道を三津-松山間に運行させ、その後も着実に路線を延長させていたのに対し、旧国鉄の県内への延伸は遅く、全国の県庁所在地の中で、国鉄の開通が最も遅れたのは松山であった。

旧国鉄の予讃線、その松山への延伸は、当初の計画では三津浜を経由せず、和気から松山に直通するというものであった。三津浜町(注-当時は温泉郡三津浜町)はこの計画に驚き、町民をあげての三津駅設置運動をおこした。その顛末を『三津浜誌稿』は次のように記している。

予讃線は初め和気より松山へ直通する計画を鉄道省はたてていた。それを知った三津浜の輿論は湧きたち、全町一丸となって三津駅設置運動をおこした。
然し憲政会が多数を制していた松山市は猛烈に之に反対したので、三津浜町民は政友会にたよって、いよいよ結束を固くし、激しい党争(注-原本の表記のまま)を開始した。
形勢は次第によくなり、三津浜側も当初の太山寺にトンネルをつくり、伊予鉄三津駅付近設置案を譲歩し舟ケ谷経由の現在駅地点に置くこととし、絶ゆまない運動を継続した。
この頃宮崎町長は病気をおして近藤正平氏とつれだち、宮島まで時の鉄相大木遠吉伯と同乗し膝詰めで陳情した。大木伯は伝法肌の人であったから宮崎町長の懇意に動かされ結果、大体の決定をみた。
その後、憲政会が政局をとるに及んで三津経由も危ぶまれたが宮崎町長以下よく善処したので最後の結着をみたのである。


当時の松山市は三津浜駅の設置に反対。「松山市=憲政会」、「三津浜町=政友会」の構図で両者の間に激しい対立があった。本年6月14日・15日のブログ記事でも言及した宮前川の汚水問題でも両者は対立、松山と三津の間にこうした対立の歴史があったことは余り知られていないのではなかろうか。

【典拠文献・参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』1983年3月

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