虚子「遠山に日の当りたる枯野かな」の句

明治14年(1881)、高浜虚子の家(池内家)は、北条西ノ下から玉川町(現在の松山市一番町1丁目)に移った。当時の玉川町は松山の街の東端で、そこから先は一面に水田が広がっていた。虚子の家の二階からは遥かに湯山の渓谷が見渡せたという。

虚子の代表句「遠山に日の当りたる枯野かな」は、この玉川町の自宅二階からの湯山の印象であるといわれる。虚子はこの句を「自分の好きな自分の句である」と言い、娘の星野立子には「父の一句と言われたら、この句を挙げてくれ」と言っていた。「遠山が向ふにあって、前が広漠たる枯野である。その枯野には日は当ってゐない。落莫とした景色である。唯、遠山に日が当ってをる。私はかういふ景色が好きである。わが人世(注-原本の表記のまま。以下同)は概ね日の当らぬ枯野の如きものであってもよい。寧ろそれを希望する。たゞ遠山の端に日の当ってをる事によって、心は平らかだ。烈日の輝きわたってをる如き人世も好ましくない事はない。が、煩はしい。遠山の端に日の当ってをる静かな景色、それは私の望む人世である」というのは、この句に施した虚子の自注である。

「わが人世は概ね日の当らぬ枯野の如きものであってもよい。寧ろそれを希望する」-だが、虚子の人生は俳句界の帝王として世間的には栄光に満ちたものであった。松山市丸之内の東雲神社の境内には、虚子の生誕百年を記念して建てられた「遠山に~」の巨大な句碑がある(碑陰「昭和四十八年十一月吉日 高浜虚子先生 生誕百年記念 愛媛ホトトギス会建之」)。自然石の驚くほど立派なその句碑は、虚子の八十五年の生涯が自身の「希望」とは裏腹に「烈日の輝きわたってをる如き」ものであったことを示しているかのように思われる。

【典拠文献・参考文献】
『定本 高浜虚子全集』第12巻(俳論・俳話3)毎日新聞社 1974年9月
和田茂樹編『子規と周辺の人々』(増補版)愛媛文化双書刊行会 1993年9月
池田洋三『新版 わすれかけの街 松山戦前戦後』愛媛新聞社 2002年6月

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東雲神社の句碑

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

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