三津の商家(江戸時代)

商業都市としての長い歴史をもつ町-三津浜。その三津浜にはどのような商家があったか。江戸時代、三津浜に所在した商家の具体名を「三津町役人名録」(『松山市史料集』第7巻に翻刻)によってみることにしよう。この史料には、享保2年(1717)から天保元年(1830)に至るまでの間の「三津町大年寄」「町年寄」およびそれに準ずる役職の者の名称が記されており、江戸時代の三津の最上層に位置した商家の名称を百有余年にわたって知ることができる。以下に同史料の一部を掲載しよう。まずは享保7年(1722)の欄。

享保七年壬寅正月
大年寄 村山四郎左衛門 天野屋伝兵衛 利屋九郎三郎
町年寄 唐津屋次郎右衛門 成尾屋丈左衛門 米屋半左衛門 下松屋安左衛門 利屋茂兵衛 唐松屋六郎兵衛 神島屋久左衛門 唐松屋六郎右衛門 木地屋庄兵衛 利屋与惣右衛門 米屋市郎右衛門 唐松屋善兵衛 米屋利右衛門


「大年寄」筆頭の「村山四郎左衛門」が屋号ではなく、苗字で記されているのは、苗字の公称を許されていたためであろう。「天野屋伝兵衛」以下は屋号で記されている。天野屋は天野姓。「利屋」(とぎや)は向井姓。「町年寄」筆頭の「唐津屋次郎右衛門」は同家6代目の松田次郎右衛門宗房(1693-1732)であろう。「利屋」「唐津屋」「木地屋」「米屋」はその屋号からすると、創業時はそれぞれ刃物商(利屋)、陶器商(唐津屋)、漆器商(木地屋)、米穀商(米屋)であったと思われるが、「利屋」や「唐津屋」は三津の生魚問屋株を世襲していたりする。「唐津屋」の家業は海産物卸、清酒醸造業であったらしいが、それぞれの商家の家業を特定するのはかなり困難である。
次に享保15年(1730)の欄。

享保十五庚戌年正月
大年寄 村山四郎左衛門 天野助左衛門 利屋九郎三郎 天野喜兵衛
町年寄 利屋伝三郎 唐津屋次郎右衛門 大坂屋平次兵衛 下松屋与左衛門 米屋半左衛門 神島屋久左衛門 唐松屋六郎衛門 片屋忠次郎 茶屋甚助 米屋市郎左衛門 唐松屋善兵衛 米屋利右衛門


「天野屋」は前年までは屋号で記されていたが、この年から「天野助左衛門」「天野喜兵衛」というように苗字で記されている。苗字の公称を許されたのであろう。「唐津屋」の松田家はこの天野家の親族であったという。「大坂屋」は廻船業者兼待宿であったのだろうか。山家清兵衛がこの「大坂屋」に宿泊中、殺害されたという三津の口碑がある。
次に文化7年(1810)の欄。

文化七庚午年正月
大年寄 天野伝次兵衛 利屋団蔵 唐津屋次郎右衛門 門田屋市五郎
町年寄 油屋市左衛門 油屋兵作 浜賀屋庄九郎 成尾屋勘左衛門 利屋佐兵衛 下松屋与左衛門 大坂屋平次兵衛 唐松屋作右衛門 利屋新左衛門 三津屋五兵衛 米屋七右衛門 利屋喜兵衛 
舟年寄 松屋勘左衛門
御礼受与頭 油屋久左衛門 油屋半右衛門 泉屋喜七


この年に「大年寄」として名の出る「唐津屋次郎右衛門」は同家10代目の松田次郎右衛門信順(のぶまさ 1785-1842)。渙卿(渙郷)・浩斎・寒桃・三千雄などとも号した松田信順は『九霞楼詩文集』を編纂した風雅の人である。
次に文政8年(1825)の欄。

文政八乙酉年正月
大年寄 天野伝次兵衛 向井団蔵 唐津屋次郎右衛門
同格 門田市五郎 天野七郎 向井喜八郎
町年寄 門田屋又左衛門 利屋佐兵衛 成尾屋勘左衛門 苫屋庄八 大坂屋平次兵衛 利屋新左衛門 唐松屋十蔵 米屋七右衛門 三津屋五兵衛 利屋喜兵衛 油屋兵作 油屋市九郎 川崎屋儀平
同格 土佐屋太左衛門 利屋久兵衛 苫屋利兵衛
舟年寄 上野屋八左衛門


「向井団蔵」「門田市五郎」は前年まで「利屋団蔵」「門田屋市五郎」。この年より苗字の公称が許されたようである。なお、この向井家からは三津浜築港事業の先駆的功労者向井団四郎(1819-1885)が出る。
以上、「三津町役人名録」の一部を示した。西園寺源透(伊予史談会創立者の一人 1864-1947)によると、天野(天野屋)・松田(唐津屋)・向井(利屋)の三家が三津を代表する大家であったという。

【典拠文献・参考文献】
『九霞楼寄題人名録』(識語・西園寺源透)
松本常太郎『伊予三津浜郷土史年表』三津浜郷土史研究会事務所 1935年9月
松山市史料集編集委員会編『松山市史料集』第7巻(近世編6) 1986年4月
高市俊次「伊予俳人拾遺~九霞楼主人松田渙郷とその周辺について~」(「教育研究集録」第22集 1990年3月)

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