明治10年代の日本-モースの記述

明治10年代に来日したアメリカの動物学者E・S・モース(1838-1925)は、邦訳で『日本その日その日』と題する極めて詳細な日本滞在記録を著している。以下、同書の記述の中からいくつかの部分を抜き出してみることにしよう。まず相撲見物に行ったときの印象。モースは観客のマナーのよさに感心している。

昼過ぎにはウィルソン教授が私を相撲見物に連れて行ってくれた。(中略)巡査がいないにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出て来たのを見ると、押し合いへし合いするものもなければ、高声で喋舌(しゃべ)る者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。第一章「一八七七年の日本-横浜と東京」


次は人力車の車夫たちについての記述。客を得そこなってもいやな感情を示さず、人力車どうしがぶつかっても罵り合うようなことをしないと述べている。

大学を出て来た時、私は人力車が四人いる所に歩みよった。私は、米国の辻馬車屋がするように、彼等もまた揃って私の方に駆けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異なった麦藁を四本ひろい、そして籤(くじ)を抽(ひ)くのであった。運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、他の三人は何等いやな感情を示さなかった。汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の轂(こしき)にぶつかった。車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合った丈(だけ)で走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る罵詈雑言とを比較した。何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。また今迄の所、動物に対して癇癪を起したり、虐待したりするのは見たことが無い。口小言をいう大人もいない。これは私一人の非常に限られた経験を-もっとも私は常に注意深く観察していたが、-基礎として記すのではなく、この国に数年住んでいる人々の証言に拠っているのである。第一章「一八七七年の日本-横浜と東京」


モースは日本人にかなりの好印象を持っている。人々が正直で盗みが稀、日本人が稀に盗みを犯すことがあるのは、西洋人と接触したがためであると思っているふしもある。

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入しても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また、今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚もって来た。この国の人々も所謂文明人としばらく交っていると盗みをすることがあるそうであるが、内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、条約港に於ても稀なことである。日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も閂(かんぬき)も戸鈕も-いや、錠をかける可(べ)き戸すらも無いことである。昼間は辷(すべ)る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、而もその構造たるや十歳の子供もこれを引き下し、あるいはそれに穴を開け得る程弱いのである。第一章「一八七七年の日本-横浜と東京」


モースの以下のような筆致はほとんど日本賛美の域に達している。

外国人は日本に数ケ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善悪や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。第一章「一八七七年の日本-横浜と東京」


モースが両国の川開きに行ったときの記述。大混雑の中で交わされる「アリガトウ」と「ゴメンナサイ」にモースは感嘆の声を惜しまない。

私は「河を開く」というお祭に行った。この正確な意味は聞かなかった。このお祝は隅田川で行われるので、東京中の人が何千人となく川の上や河岸の茶店に集って来る。(中略)丁度その時一艘の舟が、お客を求めながら、河岸に沿って静かに近よった。我々が乗ると、間もなく舟は群衆の真中まで漕ぎ出た。この時我々の眼前に展開された光景以上に不思議なものは、容易に想像できまい。ありとあらゆる大きさの舟、大きな、底の四角い舟、日除や天蓋を持ったのが多い立派な伝馬船……それ等はいずれも、色鮮かな提灯の光で照らされている。(中略)ある舟では河の向う岸では橋に近く光輝燦爛たる花火が発射されつつあり、我々はこの船の迷路の中で、衝突したり、後退したり、時に反対の方向に転じたりしながら、一時間ばかりかかってやっとおそへ行くことが出来た。舟の多くが只水に浮んでいるのに、岸に着こうとしたり、又は他の場所へ行こうとして、我々と同じような難境にあった舟もあったが、それにも拘らず、荒々しい言葉や叱責は一向聞えなかった。(中略)乗船した河岸に帰ろうとして、我々は反対の方向に進む多くの舟とすれちがった。船頭達は長い竿で、舟を避け合ったり、助け合ったりしたが、この大混雑の中でさえ、不機嫌な言葉を発する者は一人もなく只「アリガトウ」「アリガトウ」「アリガトウ」或は「ゴメンナサイ」だけであった。かくの如き優雅と温厚の教訓! 而も船頭達から! 何故日本人が我々を、南蛮夷狄と呼び来たったかが、段々に判って来る。第四章「再び東京へ」


以下、日本には盗みがないという記述。上引の部分でも以下の部分でも、しばしば自国と日本の違いが指摘されている。

今日の午後、私はまた博覧会へ行き、そこに充ち群衆の中を、歩きながら、財布を押え続けたりしないで歩き得ることと、洋傘をベンチの横に置いておいて、一時間たって帰って来てもまだ洋傘がそこにあるに違いないと思うことが、如何にいい気持であるかを体験した。「草を踏むべからず」とか「掏摸(すり)御用心」とかいうような立札は、どこにも見られぬ。第八章「東京に於る生活」

また路の所々に、瓜を売る小舎が建ててあった。(中略)これ等の小舎に関する面白い点は、その殆ど全部に人がいないで、値段を瓜に書きつけ、小銭を入れた箱が横に置かれ、人々は勝手に瓜を買い、そして釣銭を持って行くことが出来る!私は見知らぬ土地を、付き添う人なしで歩く自由と愉快とを味わいつつ、仲間から遥か前方を進んでいた。非常に渇きを覚えたので、これ等の小舎の一つで立止り、瓜を一つ買い求めようと思ったが、店番をする者もいないし、また近所に人も見えぬので、矢田部(注-矢田部良吉。東京大学植物学教授)が来る迄待っていなくてはならなかった。やがてやって来た彼は、店番は朝、瓜とお釣を入れた箱とをそこに置いた儘(まま)、田へ仕事に行って了(しま)ったのだと説明した。私はこれが我国だったら、瓜や釣銭のことはいう迄もなく、このこわれそうな小舎が、どれ程の間こわされずに立っているだろうかと、疑わざるを得なかった。第十四章「函館及び東京への帰還」

八月十五日、ドクタア・ビゲロウと私とは、清潔な新造日本船にのって、瀬戸内海の旅に出た。旅館を退去する前に、ふと私は日本の戎克(ジャンク)なるものが、およそ世界中の船舶の中で、最も不安定なものであり、若し我々が海へ落ちるとしたら、私の懐中時計は駄目になって了(しま)うということを考えた。それに、岩国では日本人達のお客様になることになっているのだから、そう沢山金を持って行く必要も無い。そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、浅い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向って差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘(まま)で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質(たず)ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂(かんぬき)も見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。
我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。米国や英国の旅館の戸口にはってある、印刷した警告や訓警の注意書を思い出し、それをこの経験と比較する人は、いやでも日本人が生得正直であることを認めざるを得ない。而も私はこのような実例を、沢山挙げることが出来る。日本人が我国へ来て、柄杓が泉水飲場に鎖で取りつけられ、寒暖計が壁にねじでとめられ、靴拭いが階段に固着してあり、あらゆる旅館の内部では石鹸やタオルを盗むことを阻止する方法が講じられてあるのを見たら、定めし面白がることであろう。第二十一章「瀬戸内海」


自国と日本との違いをしばしば指摘したモースは、『日本その日その日』の最終章で、「終に臨んで一言する」といい、次のように述べている。

読者は日本人の行為が、しかも屡々(しばしば)我々自身のそれと、対照されたのを読んで、一体私は米国人に対して、どんな態度を取っているのかと不思議に思うかも知れぬ。私は我々が日本の生活から学ぶ可(べ)きところの多いことと、我々が我々の弱点のあるものを、正直にいった方が、我々のためになることを信じている。第二十六章「鷹狩その他」


モースはアメリカ人が日本人から学ぶべきことは多いと述べた。現代の日本人はモース来日時の日本人とはまるで違うといってもいいほど、生活様式もものの考え方も変わってしまっている。現代の日本人は過去の日本人から学ぶべきことが多いのではなかろうか。

【典拠文献・参考文献】
E・S・モース 石川欣一訳『日本その日その日1』平凡社東洋文庫 1970年9月
E・S・モース 石川欣一訳『日本その日その日2』平凡社東洋文庫 1970年10月
E・S・モース 石川欣一訳『日本その日その日3』平凡社東洋文庫 1971年1月

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