少年子規の作文「三津浜に遊ぶ記」

明治14年(1881)5月11日、正岡子規(数え年15歳)は学校の遠足で三津浜を訪れた。下に引くのはそのときのことを記した少年子規の作文である。[原文の片仮名は平仮名に改め、濁音符・句読点を付加した。]

三津浜に遊ぶ記
三津浜は城西一里余にあり。和気郡中の名邑にして昼夜往事織が如く実に国中に冠たり。余常に一遊を欲す。而して未だ能はず。一日学校の遠足に会す。余同席の友人二三を携て与に共に小松屋の浜楼に登る。遠近の嶋嶼眼界にあり。銀濤岸を拍て夏を忘れ、遠帆縹渺、爽気我襟袖にあり。時に天際一線の黒烟を見る。是火輪舩の浪を截て馳る也。其声淙々耳に徹す。友と共に寓目する少時知らず、大息して嘆じて曰く、其速駟馬も及ばず、噫真に稀有の事なる哉。一友従容、我に説て曰く、今日天晴れ雲無く海面漫々席を布が如し。何ぞ一葦を浮べざる。余曰く、素望に適ふと。即ち友人と共に一小舟に棹して席を舩屋の上に設け四方の景を賞す。鱗浪層々渺瀰限りなし。殆ど胸宇の豁如たるを覚ふ。聞語未だ尽ず、已に砂島に達す。砂島は三津を距ること一里に過ず。奇巌怪石波浪の間に突出し、潮満ば隠れ汐すれば顕る。余已に此に来り巌を駆馳すること数回、又舟に入る。舵工直に纜を解く。一天風無くして舟行愈緩し。漸く岸に達して又楼に登る。時已に置酒高宴す。余亦末席に連る。飛觴数行献酬時を移す。劇飲豪談歓意に適して身の風塵に在るを知らず。余以為(おもえ)らく、絲竹の楽なしと雖ども吟詠の興あり。以て宿憾を晴すに足る。已にして鐘声响々晩を報ず。友帰を促す。余止(やむ)を得ずして遂に帰途に就く。時に明治十四年五月十一日なり。


明治14年当時の三津浜町は作文にあるように「和気郡」であった。明治30年(1897)からは温泉郡三津浜町、松山市に編入されたのは昭和15年(1940)である。作文に「昼夜往事」とあるのは子規の誤記で、正しくは「昼夜往来」。町の繁華なさまを描写して「昼夜往来織るがごとく~」という。当時の三津浜町は瀬戸内屈指の港町として繁栄していた。青年になってからの子規は料亭「溌々園」の利用などで、三津浜の町を頻繁に訪れるようになる(ブログ2009年3月22日、7月13日、9月1日記事参照)。

【典拠文献】
『子規全集』第9巻(初期文集) 講談社 1977年9月

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