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真鍋嘉一郎

夏目漱石が松山中学の英語教師をしていたときの教え子に真鍋嘉一郎(まなべかいちろう 1878-1941)がいる。真鍋嘉一郎は新居郡大町村(現・西条市大町)の出身、松山中学卒業後、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学に進学し、のち同大学の教授となった。その真鍋が松山中学の生徒であったときのエピソードに、新任教師夏目金之助(漱石)をいじめてやろうとして失敗する話がある。真鍋の伝記はこれを以下のように記している。

嘉一郎自身の云ふ所に拠れば、当時生徒の間には、新しい先生が来ると、難かしい質問を持ち出して返答に詰らせ、教壇の上に立往生をさせると云ふのが風習になってゐた。つまり新任の先生を試して見るのである。夏目といふ先生が来ると聞いても、先生の何者であるかを知らないから、それには驚かない。此奴も一つ試してやらうと云ふので嘉一郎は級長だからその役を引請けた。そして、その前の晩にイーストレーキ及び柵橋一郎訳する所のウエブスターの英和辞書を徹夜で引張って、十分に用意をして置いた。そして、教場に臨むと、夏目先生はワシントン、アーヴィングの「スケッチブック」を披げて、例に依って悠々と講義をして行かれる。その内にイーストレーキ及び柵橋一郎の訳とは違った訳をされる所が出て来た。手ぐすね引いて待構へてゐた嘉一郎は、それを見るといきなり手を挙げて、
「先生違ひます」と叫んだ。
「何が違ふか」と先生はゆっくり眼を挙げて、こちらを見られた。
「先生の訳はイーストレーキ、柵橋一郎の訳と違ってゐる、しかもそれが二箇所あります」
かう云って嘉一郎はその違ふ所以を得意になって説明した。
すると、先生は
「あゝさうか、それは一つは辞書の誤植であらうが、一つは明らかに著者の誤解だ。二つとも僕の云ったように直して置け!」と云ったまゝ、又すらすらと講義を続けて行かれた。本に書いてあることは何一つ間違ってゐないとばかり信じてゐた。然るに、こゝにその辞書を直して置けと云ふ先生が出て来た。これは大した先生だとすっかり参ってしまった。


医学者となってからの真鍋は東京大学医科大学に内科物理療法学の講座を開設、日本内科学会会頭、日本レントゲン学会会長などの要職を歴任した。大正5年(1916)11月、夏目漱石が持病の胃潰瘍を悪化させて、最期の床(同年12月9日死去)についたとき、漱石自身の希望で真鍋が主治医を務めた。漱石の妻、鏡子によると、このとき漱石は「真鍋さんを呼んでくれ、真鍋さんは悪くなった時来て診(み)て貰ふ約束があるんだから」と言ったという。主治医としての真鍋は漱石に献身的に尽した。鏡子は真鍋のその献身的な看病を、「傍の見る目にも実に一生懸命なもので、御自分の身が細る程尽して下さいました。それ程ですから、病人が少しいゝといへば喜び、悪いといへば顔の色を悪くしてらっしゃるのですから、私としてはその神経質なお顔を見るのが寧ろ怖ろしい位でした」と伝えている。

【典拠文献・参考文献】
真鍋先生伝記編纂会『真鍋嘉一郎』日本温泉気候学会 1950年12月
塩出光雅『夏目漱石と真鍋嘉一郎』医聖真鍋記念館 1978年8月
夏目鏡子『漱石の思ひ出』(改版)岩波書店 2003年10月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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