松山城-当主一族のトイレ事情

江戸時代の松山城は本丸・二ノ丸・三ノ丸・北ノ郭・東ノ郭の五つの“くるわ”からなる城郭であった。本丸は城山の山頂部分、二ノ丸は現在の二之丸史跡庭園およびその周辺、三ノ丸は現在の堀之内、北ノ郭は城山北麓の出郭(北屋敷・高石懸・高石垣)、東ノ郭は城山東麓の出郭(現在の東雲学園の敷地)である。内藤鳴雪(旧松山藩士 1847-1926)の自叙伝によると、藩主は三ノ丸邸、藩主後継者は二ノ丸邸に居住していたという(「松山城は、本丸と二の丸と三の丸というがある。かつてもいった、加藤嘉明がこの城を築いて本丸やその周園の櫓等が出来た頃に、会津へ転封されて、その後を蒲生家が貰ったので、まだ出来てない二の丸を造った。この蒲生家も暫時で亡びて、その後を松平隠岐守即今日の久松伯爵家が貰ったので、更に三の丸を造られた。そうして藩主は常にこの三の丸に住居せられたから、世子はいつも二の丸住居となっていた」『鳴雪自叙伝』)。日本近世史が専門の大石慎三郎(1923-2004 松山市出身・愛媛県歴史文化博物館初代館長)によると、本丸の天守には天守番という番役(番人)がいるだけで、藩主や藩の重要な役人が天守に上がることなどなかったという。

鳴雪の自叙伝に余り知られることのない当主一族のトイレ事情について言及した部分があるので、引用しておこう。下引冒頭の「世子」はお世継ぎ、藩主後継者(16代藩主となる松平定昭)を意味する言葉である。

世子の大便所は引出しの如きものになっていて、籾殻が底に敷いてある。そうして一回一回大便を捨ててしまうので、御下男といって最下等の卒の掌(つかさど)る所である。これは男子たる方々の厠の式で、婦人方となると私の聞いている所では、大便所は万年壺といって深く掘って、殆んど井戸のような者であるそうだ。これは始終大便を捨てるということはない。勿論貴き人は一人一個の厠を占有せられているから、生れてから死ぬるか、もしくは他へ縁付せられるまでは、この一つの厠へ用達しをして、その人が居なくなると共に、その万年壺を土で埋めてしまうのである。かように数年もしくは数十年間の大便は深い壺に溜っているのだから、傍へ近(ちかづ)いても臭気紛々たるものであったそうだ。


藩主のトイレも「世子」と同様のものであっただろう。将軍や諸大名のものも同様ではなかっただろうか。

【典拠文献】
「松山城」編集委員会編『松山城 増補四版』松山市役所 1984年3月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月
『みんなのお城 松山城』愛媛新聞社 2002年11月

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テーマ : 歴史
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