「愛媛は宣伝が下手」との評

松山の人間は商売が下手で、宣伝も下手であると昔からいわれている。子規もじれったい思いがしたのであろうか、明治34年発表の「初夢」と題するエッセーに次のような架空の対話を載せている。

「ヤア目出度う。お前いつお帰りたか。」
「今帰った許(ばか)りサ。道後の三階(注-明治27年建築の道後温泉本館のこと)といふのはこれかナ。あしやア此辺に隠居処を建てやうと思ふのぢゃが、何処かえゝ処はあるまいか。」
「爰処はどうかナ。」
「これではちっと地面が狭いヨ。あしゃア実は爰で陶器をやる積りなんだが。」
「陶器とはなんぞな。」
「道後に名物がないから陶器を焼いて、道後の名物としやうといふのヨ。お前らも道後案内といふ本でも拵らへて、ちと他国の客をひく工面をしては何うかな。道後の旅店なんかは三津の浜の艀(はしけ)の着く処へ金字の大広告をする位でなくちゃいかんヨ。も一歩進めて、宇品(注-広島の港)の埠頭に道後旅館の案内がある位でなくちゃだめだ。松山人は実に商売が下手でいかん。」


1994年刊『松山の老舗』所収の記念座談会「松山の中央商店街~その過去・現在・未来~」では、戸嶋平八(デザイナー)、近藤文夫(泰平楽社長)、作道洋太郎(大阪大学名誉教授)の3人が次のように語っている。

戸嶋 松山藩は親藩で、藩主は生活をエンジョイした人です。日々の生活にどっぷりつかってお能を観賞したり、囲碁をしたりした。ですから、冒険をしようとした商人もいなければ、それを支援する民衆もいなかったのではないかと思う。
近藤 松山商人に鋭さがないのは確かです。ぬるま湯につかってしまっている。「お前、やれ」と言える腹のすわった人は少ないように思いますねえ。
作道 江戸時代の大型の商人は、伊勢や大阪や近江など、城下町でない所から出ています。…松山は革新的なものは出てきにくいが、逆に、生活を楽しむ生活派の文化が息づいている。ここが、松山の素晴らしい点ではないかと思います。


松山だけでなく、愛媛全体が宣伝下手で他県の後手にまわることが多いようである。大阪生まれで、テレビ愛媛の社長を務めた石浜典夫は「後手後手の伊予ブランド」と題して次のように述べている(『なにわの坊っちゃん』2000年刊)。

大分の漁船と愛媛の漁船が舷々相摩しての漁をしているのに、大分側は“関サバ”、“関アジ”のブランドで全国に名を馳せ、愛媛側はただのアジ、サバに過ぎない。後塵を拝した愛媛側は、一昨年あたりから、“岬(ハナ)サバ”、“岬アジ”の名乗りをあげて対抗しているが、出荷先の東京などでは値段に大きな差があるという。(中略)
これに似た例として長浜のフグがある。このフグは実に美味なのに、わざわざ下関に送り、“下関”ブランドの傘下に入らなければ市場価値が出ないと聞く。どうも愛媛勢は後手後手を踏んで損をしている。
松山料理に特色がないのは、新鮮な素材の味を生かすため、あまり手を加えた調理をしないからといわれる。それはそれで結構なのだが、高知の“さわち料理”といっても刺身の盛り合わせに過ぎない。松山の料理屋で、いかに豪快に刺身を盛ってみても、“さわち料理”ではなく、単なる刺身の盛り合わせと呼称するしかない。豊かな食材に恵まれた土地なのに、全国的知名度のある料理名がないというのは、いかにも勿体ない。前章でふれた「保守的で消極的」「穏やかでのんびり」といった県民性がこんな所にも反映しているのだろうか。(中略)
この地の遠慮深さ、宣伝下手さには何ともじれったい思いがする。(中略)伊予の美味を天下に喧伝するいい才覚はないだろうか。


上引は10年も前の文章、そこに書かれている状況は今日でもあまり変わっていないようである。

【参考文献】
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
『松山の老舗』松山百店会 1994年10月
石浜典夫『なにわの坊っちゃん~文化部デスク時代の司馬遼太郎を語る~』愛媛ジャーナル 2000年8月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村


テーマ : 雑記
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード