「黄色い箱の森永ミルクキャラメル」-パッケージをデザインした人物

森永ミルクキャラメルのパッケージをデザインしたのは、松山出身の洋画家、八木彩霞(-さいか 1886-1969)。『彩霞功罪録』(彩霞の子八木洋美著)と題するその伝記に次のようにある。

あるとき、田村(注-田村昇。松山出身の画家)が面白い話を持ち込んできた。彼は森永製菓の田町工場に出入りしており、そこの塀に、新緑の中でピクニックをしている家族連れと青空を舞いながら笛を吹くエンゼルの絵を描いたりしていた。
田村の話では、森永でキャラメルのパッケージをもっと目立つよう改良すべく、デザインを考案中とのことである。「八木君は図案や色彩は専門だから考えてみんか。課長に紹介するから」と言われ、面白そうだ、やってみるかと、熊次郎(注-彩霞の本名)もその気になった。
目立つ色……。熊次郎の頭に浮かんだのは、色彩学にいちばん明るい黄色と、その反対色の紫であった。よし、この二色を基調にして、流行し始めたアール・ヌーボー調に図案を描いてみよう。そう決めると、早速デザインに取り掛かった。
まず、トレードマークの天使をいちばん上に置き、その左右に薔薇の花束、下に末広がりの「森永ミルクキャラメル」の文字を配し、花束のリボンを両側に垂らす。それだけでは物足りないので、いちばん下にも薔薇の花籠を配し、その手弦を弓なりにしててっぺんの天使の後ろまで引き上げる。ここまでの下図はすぐにできた。しかし天使の収まりがどうもうまくいかない。そこへ双子の姉の富美子(注-彩霞の娘)がハイハイして覗きにきた。熊次郎は立ち上がって、手早くその姿をスケッチし、背中に羽を描き加えた。富美子の頭の毛はクルっと巻いていたので、可愛らしい天使が幸せを持って降りてくるイメージにピッタリの絵ができあがった。
さて、次は色であるが、黄色そのままではいかにも落ち着かない。水飴色に近いイエローオーカー調とし、天使の周りはえび茶色に近づけて完成となった。
田町工場の松本課長から羽の数を変えてほしいと言われたので、そのとおり書き直してから本社へ持っていった。すると、営業の大串松次さんが漢字が少ないと言って「滋養豊富 風味絶佳」と達筆で書いたのを持ってきた。垂らしたリボンの両脇にこの文字を入れて、ようやく完成となり、謝礼として十円が支給された。
熊次郎が考案したデザインは、現在に至るまで森永ミルクキャラメルのパッケージに使われている。何事も移り変わりの激しい世の中にあって、大正、昭和、平成の三代を通して同じデザインが生き延びてきた事実は、商品そのものの息の長さとともに特筆に値することではないだろうか。


八木彩霞が同商品のパッケージをデザインをしたのは、大正4年(1915)年頃であったらしい。彩霞の経歴を簡単に記しておこう。明治19年(1886)松山市北夷子町(現在の三番町)に生まれる。本名熊次郎。愛媛県師範学校卒業後、県内で教職をつとめ、大正6年(1917)横浜の小学校に転出、その間ドイツ人画家リデルスタインにつき洋画をならう。大正14年(1925)~昭和2年(1926)フランスに留学、ソルボンヌ、グランショミール美術院に学ぶ。その間サロン入選3回、藤田嗣治、石黒敬七らと親交を結ぶ。帰国後は画壇から離れ、独自の道を歩む。萬翠荘(松山市一番町)の《三坂峠》《神奈川台場の図》、宮内省依頼の《明治天皇像》など数多くの作品がある。昭和44年(1969)83歳で死去。現在、県立図書館4階ロビーで同館蔵の彩霞作品《内藤鳴雪肖像画》《同夫人肖像画》などの展示がおこなわれている。

【参考文献】
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 人物』 1889年2月
八木洋美『彩霞功罪録~絵描きになった横浜元街小学校の先生~』文芸社 2004年10月

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