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三津「溌々園」の経営者は子規の親戚

明治22年(1889)2月27日付の「海南新聞」(愛媛新聞の前身の一つ)に「新浜村の生洲(いけす)」に関する次のような記事が掲載された(引用は森元四郎・浦屋薫「三津と浦屋雲林」所引による)。「新浜村の生洲」は子規がたびたび訪れたことで有名な「三津のいけす=溌々園」である(「新浜村の生洲」がのちに「三津の~」と呼ばれる理由については当ブログ3月11日「三津の旧船場町」の記事参照)。

生洲 松山府中町一丁目一色平八より今度湊町四丁目歌原邁氏へ和気郡新浜村の生洲を売渡したるがその代価は五百七十円なりと云ふ 歌原氏は之を修繕し盛んに料理、宿屋、塩湯業の営業をなすと云ふ 又た洲崎より生洲へ橋を架設し従前の通行道も付替んとの事此の通行道付替に付風早、和気、温泉、久米郡役所書記阿倍柯氏は昨日土地実視として出張になりたりと云へり


この記事にあるように、明治22年、「新浜村の生洲」は歌原邁(1829-1893)の経営するところとなり、大がかりな改装工事がおこなわれることとなった(「溌々園」は改装後の名称か)。歌原邁は正岡子規の大叔父(子規の祖母、重〈しげ〉の弟)にあたる人物で、当時は栄松社[注]の頭取をつとめていた。子規が同年以降、頻繁に「溌々園」を利用するのは、同店が親戚歌原の経営するところとなったからでもあるだろう。子規の「溌々園」訪問に関しては当ブログ過去の記事で言及したので、そちらを参照していただきたい(2009年3月22日、9月1日、2010年1月28日の各記事)。なお、歌原邁は子規の親友三並良(はじめ)の実父、維新後衰亡の危機に瀕した能楽の復興に力を尽した人物でもある。

[注]-明治9年(1876)久松家によって設立された金融機関。明治38年(1905)に五十二銀行と合併。

【参考文献】
『愛媛県百科大事典』上巻 愛媛新聞社 1985年6月
森元四郎・浦屋薫「三津と浦屋雲林」(「子規会誌百年祭記念号」2001年10月)
池田洋三『わすれかけの街 松山戦前・戦後』愛媛新聞社 2002年6月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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