「梅の家」と「明治楼」

明治4年(1871)の廃藩に至るまで、松山の二番町・三番町・千舟町各町の大街道以西は、侍屋敷がならぶ街だった。明治10年頃から士族の居住者が減り始めると、料理屋などが開業、大きな侍屋敷の中には改装して料亭となるところもあった。この界隈が料亭街となるのは明治の半ば過ぎだといわれている。

数ある料亭の中で最も格式が高かったのは、梅の家(梅廼家)と明治楼であった。梅の家は士族屋敷の白川邸を改装したもので、白川家から伊予鉄道創設者の小林信近の手に渡り、のちに料亭となった。白川邸は陸軍大臣白川義則とその妹船田ミサヲ(済美高校創設者)が幼少期を過ごしたところでもある。料亭は芸妓をおく置屋を兼ねてはならないというのが原則であったが、梅の家のみは特例が認められ、東雲亭という置屋も兼業して、明治40年代には10人ほどの芸妓を抱えていた。この梅の家があったのは現在明治安田生命二番町ビルがあるところ、当時は隣にメソジスト教会があってなんとも奇妙な取り合わせであったという。

明治楼は侍屋敷を改装したものではなく、明治期に料亭として新築されたものである。虎の間と呼ばれる百畳敷きの大広間や竜、鶴、月、雪、花などの各間のほか、宿泊用の新館などもそなえていた。明治28年(1895)年3月、子規従軍の送別会が開かれたのがこの明治楼であったことは、3月16日のブログ記事で述べた。今のみずほ銀行松山支店の北側付近がこの明治楼のあった場所である。

政友会と民政党が激しい政党争いをくりひろげていた頃、政友会は梅の家、民政党は明治楼を利用するのが通例であったという。また、新居浜の住友はこの2軒の料亭を交替で利用していたということである。

[参考]下引は明治42年の愛媛新報に掲載された「梅の家(梅廼舎・梅廼家)」「明治楼」の広告である。当時の広告は挨拶文形式となっていた。

和洋御料理
料理は梅廼舎に限るとの御高評を蒙り日に夜に御客様の絶ゆる間なき繁昌に客室を新築すること数回に及び今は広びやかに相成り夏の御涼みにも適し料理万端注意を加へ御高評に背かざるやう相働き候得ば相変らず御贔屓を給はらんこと幾重にも御願申上候 以上
    二番町 梅廼家《電話三十七番》


御料理
弊店の誇
弊楼の御料理人は嘗て上ツ方の御調理を承はり居たることあり又大阪にて割烹の教師をも勤め居たる程のものにて川魚の料理に至っては特に其の長とする処に御座候間御引立御賞味に与からば弊店の光栄不過之候 右御披露旁々御願申上度如此御座候 謹告
    松山三番町 明治楼《電話二百二十五番》



【参考文献】
「移ろひゆく料亭街」(「松山百点」199号 1998年)
池田洋三『わすれかけの街 松山戦前・戦後』愛媛新聞社 2002年6月

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