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松山城天守閣

 現在の松山城天守閣は、安政元年(1854)に再建されたものである。時の藩主は12代松平勝善(かつよし)、時代はすでに幕末であった。松山藩士、内藤鳴雪はのちに著した自叙伝の中で、13代勝成(かつしげ)の時代にこの天守閣の内部に入ったことがあるといい、天守内部の模様に言及している。その記述内容は情報量としては乏しいものであるが、意外な事柄が含まれているので、下に示しておこう。

最上層には、遠祖の菅原道真即ち天満宮が祀ってある。その他にも武器などが置かれてあったが、この天守閣の下は石造の穴蔵のような物になっていた。外へ出るには鉄の閂(かんぬき)があって、外から鉄の閂に錠が下ろしてある。ちょっと見れば外からでなければ入れぬようであるが、別に下層の間に或る押入の唐紙をあけると、そこの板敷は一つ一つ刎ね板になっていて、長い梯子があって右の穴蔵へ下れることになっていた。世子(松平定昭)と共に私も下りて見たが、上下周囲凡て石造で暗黒な上に身も冷や冷やする。ここは終(つい)に落城という時に、君公や近習等の者が自殺するために設けられたもので、上の天守閣へ火を放てば、それが焼け落ちて総ての死骸が灰となってしまう。それを敵から邪魔しようと思っても、鉄の扉だからなかなかあかない。また外から閂があるから、最初はまさかこの内に人がいようとは思わないのである。



 13代勝成の時代には、天守最上層に菅原道真(天満天神)が祀られていたと鳴雪はいう。道真は松山藩松平家にとっては遠祖にあたる重要な存在である。松山藩の藩祖、定勝(松山に入部した定行の父)は徳川家康の異父弟で、家康の母が久松氏に再嫁してなした子である。久松氏は本姓菅原氏、その家系をさかのぼれば菅原道真にたどりつく。定勝は家康との関係で松平の姓を与えられたが、道真を家祖と仰いでいた。松山藩松平家では代々、道真を重視し、城の本壇の東北(いわゆる鬼門)の櫓に道真を祀り(天神櫓と呼ばれる)、城山の麓の東雲神社でも藩祖、定勝(東雲大明神)とともに道真を祀っている。幕末に再建のなった天守閣でもそうした伝統をうけて最上層に道真を祀ったものであろう。松山城の天守閣が天守としては異例の居住空間のしつらえとなっているのは、道真を奉祀することと何か関係があるのかもしれない。[注―松山城天守閣には天井板(竿縁天井)、床の間、襖を入れるための敷居などがあり、畳を敷くことのできる居住空間的な構造となっている。]

 鳴雪が「天守閣の下は石造の穴蔵のような物になっていた」と語るのは、天守閣地下一階の穀倉と呼ばれる部分のことであろう。現在、天守閣では観光客用の出入り口として、この地下一階の穀倉というところが使われている。案内板によると、ここは米蔵とも呼ばれ、広さ89.25平方メートル、約2000俵の米を収蔵することができるとのことである。鳴雪の叙述ではここに米俵が収蔵されていたようには見えず、がら空きの空間、文字通りの「穴蔵」であったようである。その穴蔵は、鳴雪の証言によれば、いざ落城という時の藩主以下の自殺用の空間(!)。そうしたおどろおどろしい用途を本当に意図して作られたかどうかは明らかでないが、天守閣に出入りする観光客の流れが途絶えた時に、一人ここに入ってみると、鳴雪のいうところがうなずけるような異空間であることは確かである。

【参考文献】
松山市史編集委員会『松山市史』第2巻 1993年4月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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